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体験というもの

《見える》《わかる》ことと《動く》《実践する》ことは全然べつのことである。

さらに、それを頭でわかっている自分というものがいて、うごきや実践の手前でストップしてしまっていないか、を常にチェックするこころは、今の世の中で大切かもしれない。

インターネットやアバター、人工知能などの普及により、自分の頭を使わずして《見える》《わかる》の地点に到達するのが人間速くなった。だが「身体を使ってない以上」それはバーチャルであり、” 自分の体験 ” というにはほど遠い。

人間の機能の中で、脳を中心とした(あたかも脳が司令塔、管制塔のように働き、体の各部分を動かしている、といった)捉え方は非常に西洋的であると言えるかもしれない。人間が生まれ持っている運動の感覚および神経の反射は、”脳の知 ” がつかさどっている領域ではなく、からだが本来持っているいわば ” からだの知 ” である、、、とするのが東洋的捉え方。

つまり「音をきく」という行為も、聴覚が物質の空気振動を鼓膜でとらえ、脳に送られ、脳がそれを音として認識する、、、とするのが西洋的認識。(もちろんこれは一瞬のことであるのだろうが、それが持続するにしろ、記憶であるにしろ、ひとが認識した時には、そこにはその音は既に存在していない。)

だが聴覚を使って空気振動や情報を認知する、のが果たして「音をきく」という行為だろうか?「聴く」という行為は確かに聴覚器官に限定されるかもしれないが、「聞く」という行為は「温度」「匂い」「みえるもの」「過去の記憶」などすべての感覚を総動員して「全身で体験している」はずだ。

体験とは本来、全身の感覚を使うものであり、聴覚と脳内の認識だけで片付く話ではない。

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海外に留学する直前、NHKの番組に出演した。20代前半の頃である。

撮影当日、NHK福岡放送局に行くと、広々としたスタジオの一角に、私が演奏する場のセットが組んであった。

秋の木の葉が舞い散る夕暮れ色のライトに照らされたロマンチックなセット、、、

だが同じ空間内の真横にはニュース番組のセットが組んであり、さらに隣には料理番組のキッチンのセットが組まれていた。そしてその日、現場では私の撮影より料理番組の撮影のほうが先だったのだ。

私は本番、収録しながら思った。

お茶の間でテレビを見ている人たちは、まさかこのギタリストが、フライパンで溶かされたバターの香りに包まれた空間で演奏しているとは想像もつかないだろう、、、と。

テレビの撮影現場にも、においはあるのだ。だがその世界は電気および電波に変換され、視覚と聴覚のみの情報として世の中に発信される。それを視聴者として受け止めることは、果たして体験と呼べるものだろうか?

呼べるかもしれないが、体験としてはいささか” 不完全 ” だと、私はそれ以来認識している。

 

2023.09.24.

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