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演奏について思うこと(その4)

 

私が長年に渡り感じてきたことを 今回は正直に綴りたい

”個性”というものに関する話 

”個性”というものが 確実に存在するか 幻想に過ぎないかという問題は ここではいったん横に置き 在るという前提でとりあえず進めたい

 

《ひとから受けた影響》は極力隠したい という心情が 昭和の頃のひとびとは特に強かった気がする これは日本だけの風潮でなく 例えばアメリカなどはその傾向がさらに強かったことを ジョージ・ラッセルは当時の対談で話していた だが演奏家が当時 ”わたし”として打ち出そうとしていたものの正体は おそらく”個性”ではなく”独自性”であり このふたつはうまくは説明できないが 似て非なるものではなかろうか

 

”個性”という言葉に対応するものはなんだろう 

”他者”だろうか? あるいは”平凡”?”一般”?”全体”?

いずれにせよ ここまで考えた時点でいつも思うのは 「まったく同じものなんてこの世に存在しない」ということ たとえ工場で大量生産されたものであっても「それをどこでだれが触れたか」という空間的・時間的・人的なフィルターを通した時点で それぞれ個別な存在になる

私がここで言いたいのは「個性というものは当たり前な存在」だということ(「当たり前だから価値がない」とはひとことも言っていない)

「あの人は個性がない」という言い回しに関しては ひととして互いに触れ合っていないことが原因となっている場合がほとんどであり 印象についての一方的な《上から目線的感想》であるケースが多い

放っておいても自然に存在する”個性”というものを 演奏において発露しようとする努力そのものが いつの頃からか滑稽に感じて仕方がない クラシック音楽の場合は 特に演者自身の個性の発露はどうでもいい問題であるとさえ思える

そんなことよりも演奏面で大切だと思うのは 演者がその音楽に身を置いているときに どんな”景色”を見ているのか この場合の”景色”とは 具体的な風景とか映像の話ではなく 音楽全体を貫く”感触”といってもいい

 

演者が感じている”感触” ”景色” 

その時間・空間を共有し 方向を統一される力も働かず 皆自由な感覚でそこに居る というのが 私が現在つくりたい《演奏の場》である 演者の個性の発露など演者が意識するのは 私にとってはただの自意識過剰であるとしか思えない

他者の気持ちになろうともがいた結果 なりきれずに 本人が意図しないいびつなかたちで露呈してしまったもの それのみを私は「愛すべき個性」と感じて許容している

 

自分の力だけでは見えてこない景色 体験できないものを「真似したりされたり、、、」というその関係性の中で あそび 学び 吸収してゆく自由

だがそこに いささか魅惑的な香りを放つ”個性”という言葉がいつも邪魔してくる 個人的にわずらわしく感じてきた部分であるが 私の中では上記のような形でほぼ決着がついている と言っていい

(おわり)

 

2021.12.01.

 

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