唐人町ギター教室では、楽譜が読めない初心者の方からプロを目指している上級者まで、現役プロミュージシャンが丁寧に指導致します

Blog

存在とは・・・

私が過去愛聴してきたアルバムの中で仮にベストテンを組んだとして確実に5位以内にいれると思われるものにカエターノ・ヴェローゾの「リーヴロ」というアルバムがある。
このアルバムでカエターノの音楽と出会った私は本当に幸運だったと今でも思っている。
そしてこのアルバムを耳にした98年以降今だにカエターノの活動を追い続けている。
ところで今日書きたいのはその事ではない。
このアルバムの中間点でカエターノは息子モレーノ・ヴェローゾの曲を披露する。曲のタイトルは「ハウ・ビューティフル・クッド・ア・ビーイング・ビー」というもので歌詞として存在するのはこの一言(”存在とはなんと美しいものであることか”の意)のみ。
この言葉を3分半に渡って繰り返す。繰り返された言葉はリズムと共に次第に熱を帯び、シンプルな言葉のみがもつ深く広い次元へと聴き手を誘う。
”「存在する」という事は何と美しい事だろう”
色々な場面で確認し、勇気づけられる言葉である。
私は日々演奏活動をしながらも音楽に於いて主張したい事がある訳ではない。あるいは音楽に於いて「自分を表現したい」「個性を出したい」等とこれっぽっちも思わない。
(ただし大昔はそう思っていたので、そこにこだわる人達の気持ちも全く分からないではない)
ちっぽけな”自分”等を表現する為に音楽というものはあるんだろうか?
そんなはずはない。そもそも”表現する”という言葉そのものも事務的なよそよそしさを感じて嫌になる。曲にふさわしい強弱、アゴーギグ、テンポ、音色を決定して「ハイ!その通り演奏出来ました」そこで終わって何が生まれるんだろう?
”自分”の事を考えるよりもやはり、人の気持ちを感じてみよう、という立ち位置に私は居たい。自分はここに”存在”しているんだから、いまさらその存在を音楽の中で主張する必要なんかない。弾いている事で既に存在しているのだから、弾いている間は作品の感触をただ感じたり、様々な事や「音の景色」に”気付く”自分でありたい。
もちろん自分が完全な「客観的視点」に行くなんて事は不可能だしあり得ないと思う。どんなに作者の気持ちになろうとし、作品の感触をさぐってても結局自分の主観からは逃れられない。大事なのはその場に居る人々と主観を共存させられるか、という事。
全員とは出来ないかもしれない。だが、お互いにその存在は認め合い少しずつでも歩み寄ろうという姿勢が大事じゃないだろうか。
自分と価値観の違う相手を自分が認めようが認めまいが、もう既にそれは”存在”しているのだ。その存在そのものを消そうという”殺人”、”テロ”、”戦争”には私は断固反対だ。
(この場合のテロという言葉は別にイスラム原理主義の行動を指している訳ではない。むしろ逆・・・)
大袈裟だと笑う人に言いたい。目の前の小さな事が全ての大きな事とつながっている。
その事実にスポットを当てるのが音楽や芸術、スポーツや演劇に関わっている人々に出来る事ではないだろうか。
たとえ小さくてもいい。”存在している事”以上の強さがあるだろうか。
”存在とは何と美しいものである事か”

カテゴリー:

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です