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「たばこ」の思い出(その2)

わたしが子供の頃(昭和50年代)は街の至る所に灰皿があった。
駅の待合い、国鉄電車の座席、バスの座席、学校の職員室、ゲームセンター、コンサート会場の
ロビー、、、。
まるで世の中の人の大半がスモーカーであるかのごとく、、、今思い返すと不思議な光景で
あった。
高度経済成長からバブル期にかけての日本は、いわゆる「サラリーマン」という人々を中心に
世の仕組みが動き、決定されていたような感がある。
 
 
わたしがたばこを吸い始めたのは平成三年、もはやそういった時代が終わりを告げようとして
いた。その後世の中から次第に灰皿が消え、健康的でクリーンな方向に世の中が向かっていっ
た。当時たばこを吸っていたわたしにとっても、これは非常に歓迎すべき良い事に思えた。
だが「吸える場所」が限られてくるにつれ、ニコチン中毒者達はたばこの吸える場所を求めて
ゾンビのように常にさまよい続けねばならなくなった。
ドライバーが駐車場を求めてさがし回るのと似た心境である(私が子供の頃はそれこそ路駐当た
り前、運転手がシートベルトなどするはずがない、という時代だった)。
 
 
スモーカーの心理(というか本質)はたえず揺れ続けている。
「たばこ大好き、たばこがないとボク死んじゃう」というキモチと「いつかはやめたい、
あるいはやめざるを得ないだろうな」というキモチ、、、。この二つのキモチのあいだを振り子
のように揺れ続けながら吸っている人が大半であろう。
だがじつは中毒性はニコチンそのものにあるのではない。
「ニコチンの中毒性」というのは2~3日吸わなければカラダからきれいに抜けてしまうほど
軽いものなのである。
本当の中毒性は、たばこを吸うという「行為」「体験」「習慣」そのものである。
「それをしていないと落ち着かない」という“心の有りよう”が、やめたい人にとっては最大の敵
である。
これはたばこに限らず世の中のいろんなものに同じ事が言えるのではないか。
パチンコ、ゲーム、テレビ、食後の甘いもの、メール、酒、、、。
 
 
「たばこは周りの人間にも害を与えるから悪だ」という言い方をよくされるが、それはあくまで
“正しさの一部分”という気がするのである。
 
たばこの別な側面にスポットを当ててみよう。
たばこが体によくないのはおそらく誰もがわかっている。
そんなよくないものを何故法律で禁止しないのか?
ここまで値上げしたり、喫煙スペースをせばめていっても、最終的に国は“たばこ”を発売禁止
にはしない。
そう考えると「禁煙キャンペーン」のたぐいは私にはもはや見せ掛けの偽善にしか
見えないのである。
 
(つづく)
 
 
 

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