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コンクールというものについて(その3)

 
「芸術とは独裁である」
 
だれの言葉だったろう、、、忘れた、、、。
 
 
「コンクールの運営」にこれまで微力ながらも携わってきたが、以前からわたしの中でずっと
疑問だった点についてこの場を借りて述べさせていただきたいと思う。
これまでほとんど語られる事のなかった“審査および審査員の問題”についてである。
 
 
コンクールの審査を一度でも経験した事のある人なら必ず肌で感じることがある。
それは他者を審査する事で、結果として自分も審査される身である、ということを、、、。
審査員は五名から七名、多いところは総勢九名で行なったりするが、奇数であることには理由が
ある。日本のギターコンクールの多くはその審査方法が「増沢方式」という伝統的なやり方に
即して行なわれており、増沢方式のシステム上、審査員が奇数であることが大前提なのである。
(増沢方式に関してご興味ある方はウィキでどうぞ)
 
 
非常にザックリと言ってしまえば、このシステムは審査員が出場者にそれぞれ順位をつけ、
それを集計してその数字的結果を尊重する、というやり方である。つまり審査員それぞれの
見解を摺り合わせる(もしくはぶつけ合う)ことを回避できる、いかにも日本らしいシステムと
言える。
だが実際には「増沢方式で出した結果を審査員全員で検討し、意見を述べ合った上で最終的な
順位を導き出す」という道筋をとるコンクールが大半であり、そのことがさらに日本的中途半端
さを助長する結果となっている。
 
 
審査現場の状況をはっきり言ってしまおう。
「コンクール」は年一回の割合で開催されるものがほとんどであるが、その年々によって当然
出場者のレヴェルもナミがあるし、審査結果にしても見解がそろう時もあればバラバラになる時
もある。そしてコンクールを主催するギター協会の理事が、数名審査に入るケースがほとんどで
あるが、他の審査員と意見がズレることを怖れているひとの何と多いことか、、、。
増沢方式ではじき出された結果を議論する段階になって、口をつぐむ審査員の何と多いこと
か、、、。少数の強気な意見に押し切られて、押し流されて、最初の自分の判断を捻じ曲げる人
の何と多いことか、、、。
 
 
そしてわたしが「最大の問題点」だと感じている事がある。
それは数多くの人間で審査する事が“公平”な審査につながる、すなわち主観を極力排した
“公平さ”こそコンクールにとっての正義だと思っている人が多い、ということである。
だが主観の全く入らない「完全なる客観」というものが存在しうるだろうか?
もし存在し得たとして、それがコンクールというものの審査に果たして必要だろうか?
審査員には第一線で活躍するギタリストや他楽器の演奏家、長年に渡り数多くの音楽を体験され
てきた評論家の先生などもはいられる事が多い。そういった数多くの現場で鍛えられた
「高い見識」を大勢の(主体性のない)人間の意見で薄めてしまうのが“客観”“公平”というもの
だろうか?わたしにはわからない、、、。
 
 
貴重な経験を積まれた諸先輩の「見識の高い意見」。
その純度を保つ方法はひとつ。協会の体面や体裁のためにそこにいる無駄な審査員の数を減らす
事ではないか、と思う。
極論を言えば、わたしはコンクールの(本選の)審査員は“見識の高い人”ひとりでいいと思う。
○○ギター協会主催「福田進一ギター・コンクール」「濱田滋郎ギター・コンクール」と銘打って
開催したほうが参加出場する若い人たちにとっても、ずっと意義がある事のような気がする。
 
 
思い出した、、、冒頭の言葉、、、。
正確には
「芸術とは“多数決”では無しに“独裁”である」
 
誰の言葉だったか、、、、、、、、、わすれた、、、、。
 
(おわり)
 

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