つい先日、(女性の)生徒Aさんがこういうことを話してくれた。
「こどもの頃、ご近所の初盆の家を、盆踊りしながら踊ってまわったことがある。小さかった私は初盆のなんたるかも知らないから、とにかくその踊りが楽しくてしょうがなくてひたすら何時間も踊りに没頭した。まるで体になにかが乗り移ったかのように。羞恥心の強い母がそんなわたしを見かねて『はずかしい』と言った。以来、人前でなにかをするのは出来るだけ避けるようになった。」
こまかい言い回しは多少違えど、こんな内容の話だった。
この話の数日後、今度は(女性の)生徒Bさんがこんな話をしてくれた。
「こどもの頃は、母からの呪縛が強くて、とにかく人前で”なにかをやる”なんてとんでもないことだった。私は幸い早く家から出たので、その呪縛から逃れることが出来、のびのびと《好きなこと、やりたいこと》にチャレンジできるようになった。かつて知り合いから『なんのためにギター頑張るの?』『なんになるの?』と聞かれて、プロになりたいわけでもなく、答えが見つからなかった。でも今は、『魂を磨くため』だと思っている。死ぬまでに少しでも魂を磨いて、綺麗な心になりたい。」
およそこんな内容の話だった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
AさんとBさんのこういった話を立て続けにうかがって、まず女性にとって【同性の親の影響力】が如何に強いものか、を感じた。男の子に接する母親の場合とは、また違う関係がそこにはありそうだが、もちろんそれは各家庭によってさまざまであろう。
【 ”あること” をやるかやらないか】を天秤にかける時、Bさんの知り合いのように「それが何の役に立つか?」「何の目的で?」を探すひとは確かに一定数、世の中にいる気がする。
それは言い換えれば、
<役に立つ>→「どう利益になるか?」 <目的を持つ>→「過程より結果を重視」
ということかもしれない。
これまでブログで何度か触れていることだが「役に立つからやる」「役に立たないからやらない」というのは資本主義社会の思想であるといえる。
「社会のために役立つからやらなければならない」 この場合の”社会”というのは資本主義社会のことである それならむしろなんにも役に立たないことをやったほうがいい お金は浪費していいし 働くことがいかによくないことかを ”あそび” をもって見せるとよい・・・・・・と 以前こんなことを高橋悠治さんがおっしゃってた 。
思うに音楽や芸術は、資本主義にとって「役に立たないもの」であってほしいし、単なる”あそび”であり続けてほしい。そもそも子供のあそびに ”目的” なんか求めないし・・・。
『なにかに没頭する』という時間が、(それが役に立とうが立つまいが、目的があろうがなかろうが)ひとが生きるうえで必要ではないのかな、、、と Aさんの話を聞いて思った。「没頭する」うん、いい言葉だなー。「集中する」「熱中する」より個人的には余程しっくりくる。
Bさんの話では「魂を磨く」っていい言葉だなー。
「人生の中で音楽にふれることで、自分のなかのヒューマニティ(人間愛)を拡大していきたい」って言ったのは、ジャズピアニストのハービー・ハンコックだったかな? まあ、同じことを言ってると思う。
2024.05.14.
タイムリーにこのブログを拝読。資本主義社会でも共産主義社会でも目的と結果のベクトルは同じ。人間って民族歴史が違っても、求める事の入り口で満足するか、そこから自分の求める旅を始めるかではないでしょうか?芸術は政治やモードではないから、ひたすら求めるものに向かって突き進むしかないと、5/18のフォルクローレ野外コンサートで認識した次第です。人間観も芸術観も日々自分のセンスを磨くことしかないんですねー。
村田 陽子さま
先日はいろいろとお世話になりました。
今日の北九州でのマエストロのソロもすばらしかったです。
演奏が博物館的であったり、単なるスタイルを演奏しているだけのものが多い中、氏の演奏が「現在生きているもの」であり、その背景にカブール先生らからしっかりと受け継いだ【フォルクローレ哲学】がベースとなっていることが、私が個人的に魅力を感じるところであり、何十年に渡り氏を追いかけ続けている理由のひとつであります。