唐人町ギター教室では、楽譜が読めない初心者の方からプロを目指している上級者まで、現役プロミュージシャンが丁寧に指導致します

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振り子

 
個人的な話で恐縮である。でも私のブログだし、、、いいよね、、、。
 
昔、自分にとって大事だったものがあまり大事でないものに変化する時期がある。
逆に昔どうでもいいと思っていた事が現在の自分にとってすごく気になることだったり。
今まさにそんな時期だ。
価値の転換は目に見える形でゆっくりおこなわれる時もあれば、目に見えないところで
ゆっくりとおこなわれ、周りから見ればあたかも急速な変化のように見えるときもある。
 
わたしにとって衝動的で急速な変化というのはいまだかつてない。
大概の場合、変化はなが~い準備期間を経ておこなわれる。
本やコンサート、CD、映画、日常の会話や出来事などから得た刺激を、長い時間をかけて反芻
するが、そうやってあたためていたものを解き放つタイミングに関しては《衝動的な勘》に
頼っている。
 
一例を挙げると、クラシックにおける「曲と演奏者」への関心の比重。
私が演奏する場合「自分がどう弾くか」より「その曲がどう弾いてほしいと言ってるか」を探る
ことにはるかに多く比重がかかる(勿論その結果として自分がどう弾くかを割り出していく
のだが、それはあくまで目的ではなく結果なのだ)。
 
そして以前は聴く側に回った場合もそうだった。すなわちリスナーとしての私の関心は
「演奏者」よりも「曲そのもの」へと向かっていた。いやさらに昔はそうではなかったと思うが
自分が活動していく上で、いつからかその様な聴き方を自分に課していたのだ。
 
ところが最近は「クラシック音楽において曲そのものは器(うつわ)であって、演奏者の
人間力次第でそこに描かれる世界が全然違うものになる」という当たり前のことだが今まで
意識的に見ないようにしてきたことに関心の比重が大きく傾きだした。
《曲そのもの》が最重要であるには違いないのだが、そこに反映される《演奏者の人間性》の
ほうがより重要関心事になってきたということである。
 
さらにここ三、四年における自分の中の変化をもう一例を挙げると、以前追求していた
《ギターにおける洗練された音世界》を捨て去りたい、という意識である。
これは年を経る毎に強くなってきている。
そのきっかけはラジオで偶然聞いた深沢七郎さんの演奏だった。
「洗練された世界、かっこいい世界」から完全に距離をおいたその演奏はあまりに力強く、
あまりに自由だった。
 
《他者から評価されるかどうか、、、そんなことどうだっていい。オレはギター弾いてりゃ
楽しいからそれでいいんだ。》
 
あきらかにそういう演奏なのだ。これにはショックを受けた。自分が如何に他者からの評価を
基準に生きてきたかを思い知らされた。「洗練された世界を追い求める」ということはつまりは
そういうことなのだ。もうそろそろいいかな、、、。そんな気がする。ただこれは他者に対し
無関心になるということとは違うこと、別なことである。他者へのまなざしは《ひとに対する
関心》というカタチでむしろ今まで以上に自分の中で重要になる予感がする。
 
「洗練された世界」を捨てる、ということは「上手い下手の関係ない世界」に踏み込むと
いうこと。周りから見たら極度に下手になったと映る領域にも踏み込む、ということ。
冷静に考えれば、じつはもとからヘタだったのだが、食べていく為に「上手いと思わせる
技術」を磨く、それがプロとしてのわたしがこれまで積み重ねてきたことなのかもしれない。
 
「他者からの評価を求めない世界、必要としない世界」と「他者に対する関心」この一見相反
するかのようなふたつの視点が共存することがギターの世界でどこまで可能だろうか?五月の
「しあわせの架け橋」コンサートが無事終わり次第、そういった領域に踏み込んでゆきたい。
これは私の意思ではなく私の中で揺れ続けている振り子が本能に命じている、もはや「抗えない
こと」なのである。
 
2016.3.29.

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