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ピンク・フロイド

 
高校三年時の三者面談、担任のU先生から志望大学を聞かれた私は「将来何になりたいと決めて
いるわけではないが、大学を卒業することで就く一切の仕事にはやりがいも興味も感じないので
大学には行きません。」とハッキリ言った。
U先生と母は私に聞こえないように何かゴニョゴニョと作戦を練っていたが、やがてまとまった
ところでクルリと私の方を向き、二人してこうのたまった。
「受験から逃げるな!」
 
 
受験を何とか乗り越え、大学に一年間おとなしく通ったが、やはり私の求めていたものは
そこにはなかった。車の話かオンナノコの話しかしない同世代の連中と付き合ってる時間は
私には無駄としか思えなかった。
そんな時期、私はよく出入りしていた楽器店に貼り出してある《バンドメンバー募集》の広告の
中に非常に気になる一枚をみつけた。
一週間考えた末、そのバンドの練習スタジオに足を運んだ私は「見学希望」の旨メンバーに
伝え、練習を見学させていただいた。メンバーはアコギを弾きながら歌うヴォーカル、
ベース、ドラムという三人編成だったが、正直見かけも音楽も怖かった(博多風に言えば
”バリえず”だった)。
しかし何よりもすごかったのは三人の《真剣さ》だった。音を出すことにかける”真剣過ぎる
まなざし”、、、。
「このお兄さんたちは信頼するに足る!」
私は自分の直感に従い、そのバンドに加入することにした。
いま振り返れば、あの日が現在の私の「音楽趣味」を形成するうえで非常に大きな転換点と
なったのである。
 
 
バンドは週三日のペースでスタジオ練習をした(そのうちの一日は五時間入りだった)。
私は当時18歳、他のメンバーはみんな3つ上の21歳。バンドをどう世間に売り込んでいくか
などという色気はメンバーにさらさらなく、音楽と真摯に向き合うことだけにメンバー全員が
喜びと充実を感じていた。
私の中で大学生活とバンド活動のあいだに急激な温度差が生じたのも無理はない。
明らかに目の前の大学生たちよりも3人のバンドメンバーの方が活き活きと力強く今を生きて
いた。
「受験から逃げなかった。」
という捨て台詞とともに大学を辞めた私は、アパートを借りて一人暮らしを始め、バンド
メンバーと共に、昼は「倉庫内作業」夜は「スタジオ練習」という念願のバンドマン生活に
入った。
 
 
「バンド」「ロック」というと大概の人のイメージは「ビートルズ」「ストーンズ」
「ツェッペリン」若い人でも「オアシス」「ニルヴァーナ」止まりだったりする。
いや洋楽に興味があるのはまだいい方で「日本のモノしか聴かない」という人も多いだろう。
もちろんそれらも素晴らしいが、ロック=ノリノリの音楽、としか捉えていない人の数は実は
結構多いものである。
「バンドではどんな感じの音楽やってるの?」この質問はバンドマン当時よく受けたが、いつも
答えに窮した。そんな時は以下のように答えて逃げることも多かった。
「う~ん、ピンク・フロイドみたいな感じですかねえ、、、。」
 
 
多くの人が思い描いている「バンド」「ロック」という言葉から連想するイメージを、鮮やかに
くつがえし、押し広げてくれるメジャーな存在の筆頭として真っ先に挙げられるのはやはり
「ピンク・フロイド」かもしれない。
この映像は1972年、ピンク・フロイドがイタリアのポンペイ遺跡でおこなったライヴ演奏を
記録した映画の一部である。
ライヴでありながらお客は一人もいない。そこにいるのは音響エンジニア、裏方スタッフそして
バンドのメンバーのみである。そういった特異な状況下で、昼夜通して非常に緊張度の高い
『真剣そのもの』の演奏が繰り広げられる。
曲の前半部はフリーミュージックであるが、メンバー各自がただやりたい放題やるのではなく、
全体の中での自分の役割を認識し音楽にエネルギーを注入し続けるさまは見事というしかない。
 
 
全体を常にクールに見渡し、音響空間を担当するギタリスト、デヴィッド・ギルモア。
メンバーの中で現在唯一の故人となってしまったリチャード・ライトによるポエティックな
鍵盤プレイ。バンドの狂気を一身に担い、前半は金物屋、後半は本業のベースと八面六臂の
動きを見せるロジャー・ウォーターズ。バンドの推進力でありエネルギー源であるニック・
メイソンの熱いドラミング。
精神性の高いピンク・フロイドの演奏はその後出会うことになる「カン」「ピーター・ハミル」
「ヘンリー・カウ」などと共に20代前半、バンド活動にのめりこむ私にとって大きな道標と
なったのである。

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