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意識の変遷(その3)

 
”正しい演奏”をやるのではなく、”その時そこに居るメンバーでのベスト”を目指す
 
これは妥協でもなければあきらめでもない。
人が他者に対していらだちや怒りを覚える時、その根本を探るとほとんどの場合が、相手の
倫理観、道徳観、意識の違い、もしくはそれらの欠如に対して無意識に教育、啓蒙しようとして
いるのである。「あんた、自分がそんなんでいいと思ってるのか!」というわけだ。
 
 
だが人の倫理観に他者が踏み込むのは、しょせん不可能だし無理なのである。
「このひとはこういうひとだ」と受け入れ、自分の方が対処の心構えを変える、もしくは
あることをきっかけとして相手が”なにか”に気がつき、自発的に動き(変化)を見せるような
ものをそこここに”散りばめておく”くらいしかできない。もっとも散りばめて気付いてくれる
相手であればこんなに簡単なことは無い。
 
 
職業ミュージシャンとして、以前の私がもっとも勘違いしていたのはその点であった。
つまり若い修業時代に先生や先輩から受けてきた道筋には、レッスンにしろアンサンブルの場に
しろ、当然《啓蒙》《教育》といった要素が含まれていたのだが、その感覚をそのまま仕事に
持ち込んでしまっていることに、田口さんのその言葉で気付かされたのだ。
 
 
《啓蒙》にしろ《教育》にしろ、感覚として結局それらは「上から下にあたえるもの」なのだ。
そういった教育現場感覚をひきずったまま、アンサンブルの場やレッスンの場に臨むと、大体
”マウントの取り合い”のような、おかしな空気になってくる。そしてクラシックミュージシャン
の場合、そういった教育的要素、啓蒙的要素が、実際の音楽現場に持ち込まれることに違和感を
持たない人が割合として多い。いわば《修行における人間関係構築》と《現場における人間関係
構築》の混同である。
 
 
「ではその場の音楽をよくするための提言はなにもしないのか?」
そう、できればしたくない。
無責任ですか?わたし。
そうね、そもそも”責任”なんてだれにもとれるわけがない一種の誇大妄想、もしくは自意識過剰
である気すらしているこのごろ、、、。
ちかごろ大切だなと思うのは、その場にいる人が各自、自力で”なにか”に気付けるような空気を
つくること。「自分が変わることでこの場に貢献したい」という気持ちが各自(当然わたしも
含まれる)に芽生えれば、他者の様子に気を配る雰囲気や、状況をよりよくするための会話が
自然と生まれるはず。
これは”教育””啓蒙”の意識からできる空気感とは、全然別種のものである。
 
 
以来、自分の感覚とちがうものをいかに許容できるか、もしくは戦わず離れるか、が大切だと
日々感じている。こういった”妥協”を許せないひとというのは、おそらく自分の感覚というもの
を尊重し過ぎなのだろう。「社会の中でどう生きるか」が重要だった若い日々から「社会の中で
生かされている」ことに感謝する方向に、現在のわたしの意識は(少しずつではあるが)移り
変わりつつある。
 
 
(おわり)
 
2020.5.28.

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