”役に立つ” というのはありがたいことだ・・・
という認識が割と多いかと思うが、わたしは20年程前からそういう考え方をしていない。
あ、だからといってそれが「正しい」とか「間違い」とか、そういう話では全然ない。
あくまでわたし個人の受け止め方の話。
”役に立つ”というのは、「こういう目的、こういうひとのために利する」ということが前提の言葉であるから、その逆として”役に立たないもの”は「無駄なものであるから排除すべきだ」という方向に向かい易い。
目的、目標などを掲げ、その実現に向かって行動や言動を決める・・・ということは、企業や公的機関などにおいては必要かもしれないが、娯楽や芸術がそれに同調する必要はない。本来そこからも自由でありうる存在なのだ。そういったことが娯楽や芸術に関わってくる時は、いわゆる利益などの話が絡んでくる場合であって、そこはいったん立ち止まって確認したほうがよいことのように思える。
音楽、絵画、スポーツ、映画、小説・・・・芸術と娯楽の境界線というものを考えてしまうと難しくなるのだが、要は《にんげんとして遊べるか?》あるいは、《そこに生きている感覚を感じられるか?》ではないか、、、と考えた時、私の場合は腑に落ちやすい。
そんで《利益》というものがそれに結び付く現象はパターンのひとつに過ぎないわけで、それらは本来的に分離できる存在のはずなのだ。つまり何が言いたいかというと、目的のないあそび、目的のない生きざま、というものは「役に立たない」という理由で切り捨てられるものでは全くない、むしろ人間が生きるために太古の時代から現在まで、どこから強制されることもなく育んできた《たいせつなもの》なのだ。
なにかの音楽が「役に立つ(すなわち何かを利する)」のはあくまで資本主義社会の結果のひとつであって、音楽には「なにかの役に立つ」という目的など本来ない。つまり音楽、絵画、スポーツ、・・・そういったものの本質は【役に立たない】ものを全身で享受しながら、その時間をあそび、生きることなのである。商業音楽というものは、あくまでも「なにかの役に立てるために」生み出された(あるいは使われた)音楽である、ということ・・・。
儀式的な目的で使用される場合の音楽も、それは《目的があるもの》だから、結果として「役に立つ音楽」。例としては国歌、社歌、校歌など・・・。
個人的には《目的がないもの》が好きだ。そのほうが音楽本来の持つあそびや「なにかに気づく」といった人間らしい感覚のそばに居られるような気がする。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
昔からヒマなときに早口言葉を作る。20年ほど前に作ったものでこういうのがある。
”本官は本革を着たほんわか保安官!”

南阿蘇の合宿に向かう(池田慎司運転の)車の中で、やたら目についた”アメリカンスタイルの施設”から着想を得た。
これは一息で言うのはそんなにむずかしくもない。
だが最近のヤツはちょっとだけ難易度が上がるよ。 いくぜ・・・。
わかったか!若隆景は若かった(五・七・五)

2026.6.14.