前回までの連載の中で書き損ねた感のある「自由」について私なりの考えを、、、。
音楽の世界で「自由」と云う事と「いいかげん」「準備不足」「怠惰」「行き当たりバッタリ」
を混同してる人に時々出会うことがある。
熟練したミュージシャンが口にする「音楽は自由だ」という言葉を経験未熟なミュージシャン
が自分の怠惰に対する格好の言い訳として用いるケースである。
これは音楽経験の積み重ねがあるひと、いろんな状況で対応する準備が出来ている(つまり
カードをたくさんもっている)ひとが口にすべき言葉で、その努力を怠っているひとにこの言葉
を吐く資格はない。
私の尊敬するジャズ・ギタリスト田口悌治氏はビバップからコンテンポラリーまであらゆる
スタイルの即興に対応されるが、アドリブに臨まれるときの氏は「コード進行分析」を事前に
しっかりと終えているのだ。「オーソドックスな進行」はもちろん身体に叩き込まれているで
あろうから、複雑な曲でない限り「一曲のコード分析」におそらく10秒もかからないとは
思うが、、、。準備をせずテキトウに臨まれてるわけでは決して無い。
私の場合、クラシックミュージシャンと共演する時に事前の合わせ練習を「たくさんやっておき
たいとき」と「あまりやりたくないとき」がある。
前者は『初めての相手』のとき(相手のでかたやクセに慣れる為)。あるいはアンサンブルが
難しい曲のとき。
後者は『共演回数が多い相手で、かつそれまでに何度も共演した曲』のとき。決して怠けたい
わけではなく、その方が演奏中いろいろと発見があるのだ。
だが『初めての相手』『不慣れな曲』のときに、共演者から「自由」を振りかざされると
うんざりする。
「この曲はテキトーにやりましょう」「わたしいつも行き当たりバッタリですから」と笑顔で
開き直られると、、、、、、う~ん。
音楽に「フリー」「ノイズ・ミュージック」「アヴァンギャルド」という分野がある。
完全自由、まさに『なんでもあり』の即興世界であるが、10代後半から20代前半にかけて
エレクトリック片手にそれらの世界に没入した。結果「フリー」にもちゃんと良しあしがある
ことは分かったが、今振り返るとそれは「音による反抗期」「音によるカタルシス」「音による
排泄」でありひとさまに聞かせる類のものではない。
あれがもし「自由」だとしたら、自由なんてたいしたもんじゃないな、、、。
だがアレを通過したからこそ見えたこと、気付いたことがあるのは事実である。
「自由とはワクの中でこそ求めうるものなのだ」ということ。
「テキトー」「行き当たりバッタリ」「アバウト」が悪いわけではない。ただその世界に行く
には「誠意ある準備」「他者に対する敬意」「経験と実力」というパスポートが必要なのだ。
2015.12.01.
「音楽は自由?」、、、はい、、、またはいいえ
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