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プレリュード第一番【ヴィラ-ロボス】その2

 
 
前回の冒頭にああ書いたけど、よく考えたらうちの大家さんが”業務を停止”したら、私は出て
いかにゃならんということか?もしかして、、、
ああ、人生とは時に困難なものだ、、、
 
 
ヴィラ―ロボスの充実したギター作品として挙げられるのは、”5つのプレリュード”のほかに、
A.セゴビアに捧げた”12のエチュード”がある。
この12のエチュードに関して、ひところウルグアイの名手E.フェルナンデスが当時の出版譜とは
別の年代に書かれた作曲者の手稿譜をコンサートで演奏していた(それは現在では浄書され
出版もされてるらしい)。
 
 
当時それが何故、話題性と衝撃を持って迎えられたかというと、やはりその中身である。
最終出版譜では切り捨てられていた、ヴィラ-ロボスらしい遊び心あふれたアイディアに満ち
溢れており、「なぜこのアイディアを最終段階でボツにしたのか」と疑いたくなるような内容で
あることを、世界中の多くのギタリストが認めたのである。
 
 
これは”12のエチュード手稿譜版”の熱が世界中のギタリストの間で盛り上がっている当時、
福田進一先生から聞いたおはなしである(ご興味ある方はご本人に直接お聞きください)。
ギター関係のイヴェントで福田氏の師であるO.ギリア氏が、フェルナンデス氏と顔を合わせた
際に”手稿譜版”に対する異議を唱えた、、、というのだ。
「作曲者は最終的な判断で現出版譜を出したんだ!」というのがギリア氏の言い分で、
フェル氏がそれについてどう反論したか、という話は僕の記憶にない。
僕が記憶しているのは、その場であいだに居た福田氏が「どっちの考え方もアリや」と
おっしゃっていたことだ。
 
 
そう、、、どっちもありだ、と今でも思う。
大切なのは、二つの選択肢を前に「”今の”自分ならこうする」ということだと思う。
それは三日後に変わったって全然かまわない。
 
 
ギリア氏の言い分は「墓をあばくようなことをするな」ともとれるが、要するに
芸術音楽の世界において《作曲者の意思》というものが、ヒエラルキーのより上位に位置すると
いう近代的倫理感と価値観に基づいているようにも感じとれる。
その敬意は私も決して否定したくはない。
だがあらたに発見されたその手稿譜が、”最終版”のための単なるスケッチの意味合いを越えた
”作品としての完成度”を十二分に備えていることも確かであった。
そう、、、だからどっちもアリ。
 
 
だがここでひとつアタマをよぎることがある。
作曲者自身はどうだったのだろう?
これもやはりひとそれぞれだろうが、本当は同じ曲でいくつも版を出したい時も実際あるのでは
なかろうか?そういった面でバリオスは結果、得をしている。後世に同じ曲でいくつも版が
出回っているなんて、実は作曲家として理想のかたちではないか?”譜面”という体裁に執着しな
かったことが結果として吉と出ているような、そんな気さえする。
 
 
それはさておき『プレリュードNo.1』である。
この曲に関して、私が”別版”もしくは”スケッチ”として、参考にしているものがある(バリオス
楽曲のいわゆるベニーテス版に対する<バーリー版><カルボーニ版>のように)。
それは《ヴィラ-ロボス本人の自演録音》である。
 
 
(そう遠くない将来につづく)
 

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