”緊急事態宣言”に寄せて

 

コロナは
平時の世の中に何食わぬ顔して共存している
矛と盾の数々を
あぶり出し続ける

 

“緊急事態宣言”はただの言葉
それが出された瞬間から “はい、緊急事態です”
のはずはない(ちなみに私は「現在が緊急事態ではない」などと言ってるのではない)

 

余裕のあるひともいれば余裕のないひともいる
《余裕測定器》が仮に世の中あったとしても
これはそのひと自身の心の在りかたのはなし

 

宣言後もまったく変わらず仕事に追われる人達
宣言後に仕事の灯がいっさい消えてしまった人達
ひととじぶんをくらべると不満が噴き出るのが自然

 

自分と国会議員の収入をくらべることはしない
今はただ
よその国から爆弾が降ってこない
この島の国に
生きる場所をいただけていることに
ただ感謝している

 

先日友人が電話で口にしたメディアへの不信
「志村けんは本当に《コロナに殺された》のか?
彼を殺したのは《彼の不摂生》ではないか」

 

コロナ騒ぎの真っただ中で
ときおり頭をよぎるのは
ふくしまのこと

 

あの日から非常時を生き続けている
ふくしまのひとたちの
かおが、ことばが
今のぼくの心の居場所を
そっとおしえてくれる

 

収入は下がり家賃は下がらない
コロナか飢え死にか
切羽詰まっていないひとは言う
「今は日本国民として飢え死にを選べ」

 

そんななか静かに突きつけられる別の現実
音楽はあるひとにとっては非常時に切り捨てるべき贅沢嗜好品
音楽はあるひとにとっては生きている自分を感じるための行為

 

2020.4.9.

 

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マスク随想

 

コロナがここまで猛威を振るうことになるとは、ひと月前に誰が予想しえただろう、、、

 

 

「俺には予想できていた!」と自分がさも偉大な予言者であるように威張り散らす連中は

とりあえず無視して、ここまでくれば感染するかどうかはもはや運である。

私の場合、これまで通り《手洗い》《咳&くしゃみエチケット》を徹底するほかに、感染しても

自分のからだを守れるよう、日頃から免疫を付ける生活を送ることを心がけている。

ちなみに「睡眠をしっかりとる」ほか粘膜を強化するために蓮根、おくら、山芋、なめこなど

”ねばねば系”の摂取がこの状況下ではよい、と私の信頼する京都のお医者先生がおっしゃっ

ていた。

 

 

必要火急の外出時、おなじく通りを歩いている人を見ると、お手製のおしゃれなマスクを

しているひとも時折見かける。

いかなる状況でもクリエイティブな方向に向かえる人を見て、なんだか頼もしくも思えるのだが

じつはそのとき私の脳内はほぼ同時進行で別な”ある記憶”を辿っていた、、、

 

 

小学3年生の春だった。

友達の間で”恐怖の口裂け女”の話が出回った。

その話によると、下校時の小学生をねらってマスクをした髪の長い女がこう声をかけてくるそう

なのだ。

「わたしキレイ?」

キレイと答えると「これでも?」と言ってマスクをはずす。

なんとその口は耳まで裂けている、、、というもの

 

 

今もそうだが、当時の私は非常なこわがりだった。

なんせ歌謡番組”ザ・ベストテン”に初めて横浜銀蝿が出た時、「うわ、こんな悪そうなひとたち

が世のなか居るんだ!」と身体の芯から震えがきたくらいのこわがりなのだ。

当時のそんな私にとって口裂け女の衝撃というのは、わざわざ”恐怖の~~”と冠を付けるのが

野暮なくらい充分恐怖だった。

 

 

数か月、世間を騒がせたあと口裂け女の話はパッタリ止んだ。

ただその数か月間、世に出回った《遭遇した時の対処法やおまじない》の他、商魂たくましい

《口裂け女グッズ》の類いは今でも私の記憶に深く刻まれ続けている(早くそんな記憶捨てて、

曲のひとつやふたつ覚えたらいいのに、、、)。

 

 

当時スーパーの前に置いてあったガチャガチャ(地域によってはガシャポンと呼ぶらしい)。

10円玉を入れて、ハンドルレバーを回すとカプセルに入ったおもちゃが一個コロンと出て

くる。

それで赤いプラスチック製の”口裂け女のくち”を手に入れた小学3年生の私は、家に帰って

早速装着し、口裂け女ごっこに興じた。その日はどうしても夕ご飯を終えるまで装着して

いたかったが親に却下された。いつの世も大人はわかってくれない、、、

 

 

いまでもマスクをした髪の長い女を見ると、あの頃の記憶が一瞬だけよみがえる街角中年

ハードボイルド・ギタリストであった。

 

2020.4.5.

 

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ある朝

 

今朝起きたとき

谷川雁の感覚と一瞬だけ

共鳴した気がした

すなわち「東京へゆくな  ふるさとを創れ」といった彼が

何故東京に出たのか

 

 

矛盾や裏切りと論ずるより、、、

彼は自分のからだをつかって結果

詩を書いたにすぎないのではないか

 

 

意識や理解の土俵にあげることで

向上し次に進めることもあれば

誤解や怒りの袋小路にからめとられることもある

 

 

” Don’t think. Feel ! ”(ブルース・リー)

” Don’t feel. Think ! ”(私の友人)

 

 

このふたつが同居しているのが

現実世界だと考え

感じている

 

 

 

 

 

あなたはどげんですか?

 

2020.3.29.

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”強さ”って、、、

 

いや~、こころから残念!

まさかというか、やはり延期になってしまった、、、中止じゃないだけまだマシだけど。

え?なにがって、そりゃ井上尚弥&カシメロ戦ですよ!

今、声を大にして私は言いたい。

「コロナのばかやろ~~~~っ!」

 

 

今年に入ってから毎朝(一日も欠かさず)続いている40分のウォーミングアップ練習。

やることは3種目。【フィゲタ】【大聖堂三楽章】【アランブラ】である。

 

 

昨年くらいから右指の空振りが多く、ある日ふとフィゲタをやってみたら空振りのあまりの

多さにショックを受けた。が~ん!昔は得意だったはずなのに、、、

というわけでフィゲタ練習を日々カスタマイズしながらやっている。

 

 

大聖堂3楽章は、単に福山雅治氏に対する対抗意識だ(なんだそれ)。

 

 

アランブラはG.グールド方式でやっている。

グールドの練習法で割と知られているものに、《TVを大音量で流しっぱなしにして練習する》

というものがあった。それはつまり自分が出す音の影響を受けずに、演奏のための運動神経回路

のみをつくるのが目的と思われる(あくまで仮説。もし違ったらコメントで教えてください)。

 

 

で、アランブラ練習にあたって私がYou Tube でなにを流してるかというと、一流ボクサーの

試合やトレーニングの映像である。なぜってあれを見ていると”これだけハードに練習してたら

あんだけ強いの当たり前だ!”と心の底から納得できるのである。

これに比べたら自分がやってる練習はなんて軽いんだろう、、、

そう思うと練習がちっとも苦にはならない。

 

 

ロマチェンコなんて試合を観てる限りではそのスタイル(余裕があり過ぎ、時に相手をおちょ

くってる感じ)がどうにも好きになれなかったが、彼のトレーニング映像を観て、試合の時

以上の真剣なまなざしに感銘を受けた単純なわたし。なるほど本番で余裕がある人というのは、

練習の時の方が、試合本番よりも断然きついことをやっているのだ。

今日はカネロ、今日はメイウェザー、今日はパッキャオ、、、という感じで流しながら今日も

ひたすらトレモロに汗を流す、、、(かっこいい~オレ!)。

 

 

コンクールで上位入賞するひとの演奏は、音楽面やテクニック面の迷いやためらいがなく

シンプルに聞こえる。若い時は物事をシンプルに整理して捉えることで、ある”強さ”を得ている

ような気がする。自分や周りを見ての経験から言えば、コンクールというものはものごとの

複雑さに気付いていないくらいの若いうちにしか獲れない。

自分の音楽を世に問うことを目指したり、音楽の多様性や複雑さに踏み込んでしまったひとは

もはやコンクールから離れた方が無難である。海外に留学し音楽経験を深めて帰国したひとほど

コンクールで優勝できないのはそういうわけだ。

 

 

たしかに強さを手に入れたい時は《シンプルに捉える》あるいは《身辺整理》といったことが

必要になってくるのだが、今の私はそういった類の”強さ”を音楽に求めていない。

 

 

物事と向き合う時、シンプルに見えるものを一度複雑に見たうえでシンプルにかえす。

複雑に見えるものを一度シンプルに見たうえで複雑にかえす。

 

 

「えっ?複雑にかえすの?」「シンプルなままでいいじゃん」というひともいるかもしれない。

”シンプル・イズ・ベスト”という言葉に象徴されるように、物事の単純化が手放しでよしと

される傾向が世の中にはある。

その視点がよい具合に作用するケースももちろんあるが、全てをそこに集約するのは一面的で

無理があるように近頃の私は感じている。

 

 

”複雑”というのは、さまざまなことが同時に起こり、あるいは共存している現象。

それを”矛盾”と呼ぶ人もいることだろう。

だが世の中はむしろ複雑な事象の方が圧倒的に多いのだ。

大切なのは複雑な個々の状況に対応できる柔軟性ではなかろうか。

 

 

ちなみに話を冒頭のボクシングにもどすと、井上尚弥氏の強さの秘密というのは、ものごとを

ただシンプルに捉えているというよりは、実際の試合のリング上で五感を駆使して対応し、

時には戦法を変更し、瞬時にベストを選び取るという、いわゆる”柔と剛”がものすごい次元で

共存しているところだと勝手に感じている。言ってみれば複雑でありシンプルなのよ。

カシメロ戦が早く観たいなあ、、、。

とりあえず最後に一言。

 

”コロナのばかばか~っ!”

 

2020.3.19.

 

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“責任”とれますか?

 

巷のニュースでよく目にする【責任問題】や【謝罪会見】のたぐい。
最近ふと考えたのだが、”責任”というものは果たしてとれるものだろうか?
昔から日本社会に存在するものではあるが、その実態は本当にあるのだろうか?

「いい歳のおっさんがこんな常識的なことを疑問に思うのか!」と考える方もきっといらっしゃるに違いない。
だが正直に言う。わたしにはわからない。

そもそも誰に対し責任をとるのか、、、
特定の個人に対する場合もあれば、不特定多数の集団に対する場合もあるだろう。

では次
どうすれば責任をとったことになるのか?
謝罪や賠償、進退如何によって、被害を被った側が気が済むかどうか、、、。

それで気が済まない場合は?
当事者間においては「責任をとれなかった」ということになる。

だが本当は気が済まないケースであっても、”勝訴””賠償””懲役””辞職””謝罪”などの形式で不承不承カタをつけるのが現実だ。
それってつまりは感情を相手にした問題ではないか?とすると集団相手の場合は感情が複数あるため限りなく不可能にちかいかもしれない。
(当事者でない”世論”はとりあえず無視して考えたい)

責任をとることが本来無理だとしたら、その事実を認めて受け入れた方がむしろ感情はもやもやしないのではなかろうか。
「私が責任者です」「責任をとります」などと言うのは単に形式であって、その所在をはっきりさせることにのみ意義があり、確実に責任をとる方法なんて本当の意味ではありはしないのだ。

私は他者に対し責任はとらない(とれない)し、責任を他者にも求めない。
なぜこんなことを考えるのかというと、例のコロナの件だ。
私が開催するコンサートやイヴェントの会場で万が一感染したとしても私には責任がとれない。とれないものはとりようがない。

仮にコロナが感染しなかったとして、インフルや結核が感染した場合はどうだろう。
やはり責任とれない。同じように命にもかかわる問題だが、そこは現在論点にはならない。今はコロナの動きが一番の関心事であるよう報道の力で動かされている。
本来とれないものなのに「責任がとれないなら開催するな」という論法はそれ自体がおかしくないか?
仮に私が「責任とってギタリストやめます」と言うことで、感染した人が溜飲をさげるのであれば、多少は意味があるかもしれない(でもそれで感染者が健康になるとも思えない)。
そもそもこのことが”開催側の責任問題だ”という議論は今まではまるでなく、今回コロナによって初めて持ち上がった事であることは強調しておきたい。

それだけ多くの人が責任の所在を明らかにしようとするのは、やり場のない気持ちの捌け口(攻撃する対象)を求めているとしか思えない。”目に見えない脅威”という意味では、震災後の福島と似た状況に晒されているのだから気持ちはわからなくもない。
だが福島の方が実際問題としてはるかに深刻だ、とも私には思える。

 
コンサートを”自主的”に延期や中止にして、その時期の生活に我々自営業者が支障をきたす場合「政府や国に責任とって欲しい」とは全然思わない(そうなると「同情するなら金をくれ」というだけの話にいきつく)。
ただ延期や中止を今後”要請”された場合は「やだね」と言ってお縄になるか、生活に支障をきたしながらなんとか生きていくかは、様子を見ながら柔軟に決めたいと思っている。

わたしが主催するイヴェントに関してはここではっきり宣言する。
「責任は一切とれませんし、とりませんので、来たい方はそのつもりでお越しください」

ただ私にとって目の前のお客様が大切なのはいつもと変わりがない。
だからこちらで出来る精一杯の対策と準備はするつもりである。
それはこちらの個人的な気持ちであり、”責任として”やるわけではない。

様々な情報が飛び交う中、《他者が自分と同じだけの気遣いをしていない》ことを怒りをもって糾弾する人がネット上には溢れている。今回のブログ内容も私に対して腹を立てる読者も当然いるに違いない。
他者のモラルに介入しようとする”正義感”は苛立ちを量産する。
今回の件、わたしは個人レベルで冷静に対処してゆきたいと考えている。
そして他のひとの対処の仕方には介入したくないと思っている。

2020.3.5.

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