私にとって

 

唄うにしろ楽器を演奏するにしろ

”発音する”ことは、からだをつかう能動的なこと

そこで鳴り響いている音を

”聴く”のではなく

”聞こえる”のは受動的なこと

 

”聞こえる”という受動的な佇まいの方が

”感じる”ことに、感覚としてより近いのでは、、、

 

そのとき”演奏”は能動と受動の循環

太古より地球上を循環し続ける水のような

おなじ水なのにおなじ現れかたは二度とない

 

 

毎日の生活でさまざまな音楽にとりかこまれている

なくなるかも、、、

という危機に瀕しない限り

ひとは音楽が人間にとって根源的に必要なものだと気付かないものかもしれない

水のように

火のように

電気のように

ふるさとのように

みぢかなひとのように

 

 

音楽で癒されるか、、、

それは結果であって

”癒しのための音楽”というものはうそっぱちだ

”感動するための音楽”も、もちろんない

なにかの”ために”音楽は存在しない

きくひとと、ただ共に”ある”だけ

 

たいそうなものでもなかろうが

「ひととひとのコミュニケーションのツール」

と言い切るほど矮小化したくない

 

 

演奏に現れるものは

そのひとのその日の生きかた

逃避の場ではなく

日々の生活と向き合っているひとにのみ、ひらかれる世界

 

おなじ時間は二度とない

 

2019.5.3.

 

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What’s “NEW”?

 

ピエール瀧のコカイン騒動にともない(株)ソニーのとった措置に対して、

「電気グルーヴの音源・映像の出荷停止、在庫回収、配信停止を撤回してください」

という請願を提出するための署名をネット上で呼びかけている人達がいた。

私自身は別に”電気グルーヴ”の熱心なファンではないが、企業によるその手の”自主自粛(早口

言葉みたいで言いにくい)”にはかねがね違和感を持っており、署名をした。

 

 

3月17日に署名してからというもの、二日に一度くらいのペースで進捗状況メールが、例えば

以下のような形で送られてくる。

 

《13:00~13:05 株式会社ソニー・ミュージックレーベルズへ署名提出》

株式会社ソニー・ミュージックレーベルズの本社を訪問し、世界79ヶ国・64,606名の皆さまの署名とコメントを届けてまいりました。(後略)

 

一斉送信とはいえ、その律義さには好感が持てる私。

 

 

「ヤクに手を出した奴なんかの音楽は聴きたくない」なら、そう思ったひとは買わなければいい

だけの話。ただそういうひとはジミヘン、ストーンズ、ビートルズなどの音楽にも一切触れ

ないようにしなければ、それは偽善というもの。それらの発売は停止&回収しないのかな?

加えて企業側が「そんな輩のCDを市場に出回らせたりしてはいけないですよね?」と忖度する

相手は”日本の一般社会”という、はたして実態があるのかないのか分からない漠然としたもの。

ドラッグを肯定はしないが、音楽に罪はない。

 

 

マイルスが自叙伝の中で1956年の自分のバンドの状況を振り返りながら、メンバーである

J.コルトレーン(Sax)F.ジョー・ジョーンズ(Dr.)ふたりの当時のヤク中ぶりを嘆いている

記述がある。

 

~バンドが週当たり1250ドルも稼いでいるというのに、メンバーがステージでうつらうつらしている。そんなこと、このオレに許せるわけないだろ。彼らがハイになっているのを見て、オレまでジャンキーに戻ったと思う奴が出てくるかもしれなかった。だがオレは、時たまコカインを鼻で吸う以外、きれいさっぱりヤクと切れていた(後略)。~『マイルス・デイビス自叙伝(マイルス・デイビス、クインシー・トループ著/中山康樹訳)宝島社文庫』

 

で、最後の一言はなんやねん?(苦笑)

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【”新しい”とはなんだろう?】

”今、自分に起こっていること”という意味では、3分前よりも今の方が新しい。

ただ”今、自分にとって起こっていること”という意味においては、”新しい”ということは

必ずしも時系列で起こることとは限らない。

なぜなら自分にとっての新しい《未知の出来事》は、今現在よりもむしろ過去にころがっている

可能性がある。

 

 

例えば私が1980年代を過ごしたからといって、その頃のすべてを体験した訳ではない。

むしろ私の知らない1980年代がヤマほど残されていて、それらのことは今の私にとっては

”新しい”未知の出来事なのである。ましてや1950年代、1820年代、1460年代などの過去と

いうものは、私にとって《まったく新しいもの》なのである。

 

 

そう考えると”新しい未知の出来事”というのは、なにかに気付く、あるいは目覚める「自分に

とっての刺激的なこと」のことではないか。つまりなにが新しいかはそれぞれにとっての個人的

なものであって、決して人に委ねる価値観ではない。

 

2019.4.18.

 

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ささやかな表情

 

 

ギターにはささやかな表情(ニュアンス)がよく似合う、、、。

 

 

世の中には古典期から現代にいたるまで、さまざまな規模の”クラシックギター作品”が生み

出されている。

曲によっては<ダイナミックな表情><コワモテの表情><やわらかい表情><カッコつけた

表情><泣きの表情><可憐な表情>このほかいろんな表情があるし、もちろん一曲の中に

様々な表情を併せ持つものも多い。

おそらく演奏中大切になるのは、《表情の持続》もしくは《表情のいさぎよい切り替え》であり

作曲者の指示がない場合でも”音符(休符)そのもの”がそれらの表情を要求している。

それら表情の選択に”正しい””間違い”は無いにしろ、「こっちとこっちだったら、どっちの方が

聴いていて(自分が)楽しいか」という判断基準のふるいにかけながら、私は日々ギターを

弾いている。

 

 

(練習も本番もひっくるめ)演奏はつねに一回限りのものであり、表情を固定化させることは

しない。

考えてることは毎回同じだったとしても、さじ加減は日々変わる。

その変化に日々柔軟についてゆく、、、。

演奏中”たまたまの出来事”に、たぶん未知のおもしろいことへの突破口があり、そこに反応

しながら動いてゆく。コンサート形式の場合、お客さんはお金を払い”そのこと”に立ち会う。

演奏家は応えたい。ただ一回きりの儚い時間に「いかに活き活きと生きられるか」。

 

 

『ギター名曲170選A(ドレミ楽譜出版社)』からの選曲で先日コンサートを行なった。

私にとって大きなチャレンジであり、今回本当に多くのことを考えさせられた。

”模範演奏”ではなく、作品としての魅力をお客さんにどこまで伝えられるか。

C.ヘンツェの『ノクターン』、J.S.サグレラスの『マリア・ルイサ』、、、それらの曲の表情を

そっとなでることは、わたしにとって武満やブリテン作品の表情をそっとなでることとなんの

違いもない。

「なんの曲に向かい合っているか」よりも「目の前の曲とどう向かい合っているか」を大切に

してゆきたい、、、と常日頃思っている私が今回選んだ曲は以下のものであった。

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《黒田義正作ラコート・タイプを使用》

パヴァーヌ第二番(L.ミラン)スパニョレッタ(F.カローゾ)歌と舞曲(V.ガリレイ)プレリュードとアレグロ(S.デ・ムルシア)道化師の踊り(F.フェランディエレ)モデラート、アンダンティーノ、ワルツ(F.ソル)エチュード(N.コスト)アンダンテ・カンタービレ(A.カーノ)

《M.バルベロ・イーホを使用》

スペインの微風(J.フェレール)ニ長調のワルツ(F.タレガ)ノクターン、緑の木陰にて(C.ヘンツェ)マリア・ルイサ(J.S.サグレラス)白鳥の歩み(F.A.マルサグリア)大利根(武井守成)雨だれ(G.C.リンゼイ)

【アンコール】

エステューディオ(A.ルビーラ)ラグリマ(F.タレガ)

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コンサートの最中に、ふと「お客さんに助けられている」と感じることが最近多い。

先日もそんなコンサートだった。

気負うことのない”ささやかな表情”を、なかなかはじめから出せるものではない。

コンサートでそこにたどりつくまで数曲を要する場合もある。

そんなとき肩の荷を降ろすスイッチをお客さんがポチッと入れてくれる場合がある。

”ささやかな表情”を、始めからタメライも疑いもなく出せる心境になれる日がいつか来るの

だろうか?来るといいな、、、。

 

2019.4.5.

 

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クラシックギターは何処へ

 

戦後とは言っても、私自身71年の生まれだから、それ以前の戦後(1945~1970)については

本、写真、映像、諸先輩方の体験談を通した形でしか知らない。

しかも私がギターと関わり始めたのは78年(7歳の時)であるから「日本を取り巻くギター界

を直接に体験した」と胸を張って言えるのは、実は80年代半ばから現在までのわずか30年と

ちょっとの期間である。

 

 

その”30年とちょっと”の間に起こった劇的な変化として非常に覚えているのは、M.バルエコ、

D.ラッセルら新時代のスターの台頭にともない、アポヤンド、ポルタメント、テンポ・

ルバートが使えない雰囲気が醸造されていったことである。

「そんなの自由にやればいいじゃないか」

と当時言い切る勇気のある人は”時代遅れ”として徐々に片隅に追いやられていった(無論現在は

そんなことはない)。

時代の雰囲気というものは意外と権力を持つものである。バカにならない面がある。

それまでの”セゴビア追従世代”に対する下の世代の反動として、当時のそれは世界中に広がって

ゆく、いわゆるひとつのムーブメントの様相を呈していた。

 

 

もうひとつ昭和末期から平成はじめにかけて印象的だったことは、福田進一氏の出現と活躍

である。

フランスから帰国され、デビュー・アルバムを発表された頃から、私は生(ナマ)で氏の演奏に

接してきたのだが、日本のギター界に与えたインパクトとしては、なんといっても『21世紀の

タンゴ』(1987年)が最大であった。収録されている「タンゴ・アン・スカイ」を皮切りに、

日本中の愛好家がこぞって氏の最新レパートリーを追いかけ始めたのである。

たしかに氏の選曲には、当時の若いギタリストが飢えている”夢”や”活気”があふれていた。

その結果「新しい”ヒット曲”が生まれる」という、普通他の楽器には起こり得ない異例の現象が

クラシックギターの世界において、その後数年間続くこととなる(例「11月のある日」

「サンバースト」「コユンババ」「愛のワルツ」「ブエノスアイレスの夏(もちろんギター

編曲版という意味)」「バーデンジャズ組曲」など)。

 

 

誤解を生まないよう言っておくと、決して福田氏ひとりが時代を牽引していたわけではない。

だが今のように情報が多様化している時代と比べれば、それはスターの時代であり音楽産業が

力を持った時代である。もちろん今もそれは残ってはいるが、それにしてもあの頃はやや異常で

あった。

ちなみに私の場合、現時点で全面的にそれらを否定する気は無いし、私にとっても楽しかった

思い出の一部であることにかわりはない。

 

 

これからクラシックギターをとりまく環境がどのようになっていくのか分からない。

ただ九州の地で活動していて気になるのは、やはり”愛好家”の少子高齢化問題である。

”若いプロ”が育っているかどうかよりも、私にはそちらの問題の方が気になって仕方がない。

あとはベルリンフィルが、「アランフェス」のソリストにカニサレスを起用して数年経つが、

今後益々そのような事態は増え続ける可能性がある。つまり「クラシックの素養もある専門的

(スペシャリスト)ギタリスト」の方が、「世界最高峰のクラシックギタリスト」を使うよりも

面白いものが出来るのでは?と天下のベルリンフィルが判断したということ。

これは常に定食屋のようなことを生業としているクラシックギタリストにとっては大変な事態

なのであるよ。

 

 

だからプロのクラシックギタリストは、自分たちクラシックギタリストの存在意義というものに

対してもっと自覚的になりましょうよ。

ひとが弾かない珍しげなかっこいいソロレパートリーを弾いて自分のうまさを誇示するという

気持ちだけじゃクラシックギターは滅びるのよ、、、。

 

2019.4.1.

 

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集団と自分

 

いきなりCMのコーナー、、、。

来たる3月31日(日)福岡市内の某所にて、「春のサロンコンサート」と題したギターソロ

演奏会を予定。『ギター名曲170選ABC(ドレミ楽譜出版社)』のA巻(全91曲収録)からの

選曲のみで構成し、お届けするこのコンサート。生徒さんたちが発表会などで演奏する機会の

多い曲を採り上げる予定なのだが、決して模範演奏を狙ったものではない。

「みなさんが日頃接している曲は決して上達のための”踏み台”ではなく、”作品”なのです」

「なんの曲に取り組んでいるかが重要ではなく、目の前の曲にどう取り組んでいるかの方が

はるかに重要」

この2点を《演奏を通じて》みなさんにお伝えしたい。20曲ほど演奏するつもりであるが、

もちろん私にとって本気の取り組みである。

作品の魅力がお客様に伝わることを第一に目指して、目下練習中。

狭い会場のため、あと3名で定員に達する予定。ご予約はお早めに、、、。

 

 

もひとつCM。

かつてCDをご一緒させて頂いたこともあるヴァイオリン奏者、荒田和豊氏が九州交響楽団を

定年退職されるにあたり、氏がかねてから共演をご希望されていたギタリスト鈴木大介氏との

デュオコンサートが実現。シューベルトの名作『アルペジョーネ・ソナタ』やピアソラ

『タンゴの歴史』のほか、鈴木氏ソロによるメルツ編『6つシューベルト歌曲』(私の大好きな

ヤツ!)など充実のプログラム。

4月16日(火)19:00開演【18:30開場】場所は福岡市内にある室内楽用ホールとしては最高

の”あいれふホール”。チケットは唐人町教室でも取り扱っているので、こちらも是非お早めに。

 

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去る3月20日(水)夜、ひさしぶりにバンドのメンバーと再会し、飲んだ(一応飲めるのよ、

ボク大人だし、、、)。

数字の記憶に弱い私にはどうでもいいのだが、7~8年ぶりくらいだろうか。

これまでの空白期間があっという間に埋まっていくかのような会話の数々、、、。

 

 

居酒屋での二時間半はあっという間に過ぎたのだが、このメンツの中に居る時にしか出さない

”自分の顔”というものがあることに、ふと気が付く。

別な集団の時には、私はきっと別な口調で別な顔をしてしゃべっていることだろう。

わたしだけではあるまい。これを読んでくださってるあなたもきっとそうではなかろうか?

 

 

どの自分が”素のわたし”で、「これは本来のわたしではない」などと区別したりはしない。

きっとどれも本当のわたしの姿なのだろう。どの集団に属するかでいろんな顔が自然と出てくる

のなら、”多層的な自分”であるためにいろんな集団に属した方が人生面白いのかも、、、

 

などと考えた花粉まみれの春。次はヒノキかぁ、、、(じつはダブル花粉症のわたし)。

 

2019.3.21.

 

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