ある朝

 

今朝起きたとき

谷川雁の感覚と一瞬だけ

共鳴した気がした

すなわち「東京へゆくな  ふるさとを創れ」といった彼が

何故東京に出たのか

 

 

矛盾や裏切りと論ずるより、、、

彼は自分のからだをつかって結果

詩を書いたにすぎないのではないか

 

 

意識や理解の土俵にあげることで

向上し次に進めることもあれば

誤解や怒りの袋小路にからめとられることもある

 

 

” Don’t think. Feel ! ”(ブルース・リー)

” Don’t feel. Think ! ”(私の友人)

 

 

このふたつが同居しているのが

現実世界だと考え

感じている

 

 

 

 

 

あなたはどげんですか?

 

2020.3.29.

カテゴリー: エッセイ, 生活の中の音楽 音楽の中の生活   パーマリンク

ある朝 への3件のコメント

  1. S.Hongou より:

    どげんでしょうか。

    感じる時が先のとき、と、考えるときが重要なときと。

    両極を、知らないうちに均衡をとっているような気がします。

    詩は、降ってくるもので感覚で記します。
    小説は綿密に計画し企んで書きます。

    • ryuji より:

      S.Hongouさま

      どげんでしょうね

      いまふりかえると
      遠い昔は、ことばと向き合う時
      感覚的な方が多かった気がします
      学校教育のせいにするつもりもないですが
      学生時代から思考や理解を前提とした向き合い方にかわってゆき
      数年前の父の死をきっかけにあらためて現代詩の世界と向き合う今
      意味や思考、理解とは異なる時間を流れている
      感覚的なことばの世界にあらためて身を浸しています

      そのことばを”こえ”として音に出すと
      視覚的に捉える《読む》という動作とはべつの感覚として
      さらに《聞く》という捉え方がひろがる

      意味を追われることなく
      音や文字として
      感覚のために存在していることば

      詩と向き合い
      ことばとの向き合い方をかえることで
      様々な感覚が起きてくるのを楽しんでいます

      • S.Hongou より:

        難しかです。

        感性、感覚から生み出された単語、文章に意味を見つけなければならない国語指導を長く受けました。今も続いています。

        本当は、厳密に意味などない(言い過ぎですが。)、記したものはある程度ひとり歩き出し、出合う方の心情、立場、思想で受け止め方がかわる。

        そこから、また新たな言葉が、きっと問い掛けられてくるのだろうと。

        それがあるかぎり、詩も文学も、そうして音楽も、死ぬことはない、そう思っています。

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