脱(?)”コンサート”

 

昔書いたブログへコメントを頂戴した。作曲をされてる遠方の方だった。

知り合いからのコメントもうれしいが、目の前のことに真剣に取り組んである未知の方と会話

できるよろこびが今回あった。こういうのは文明の恩恵だと素直に認め、受け入れたい

(そう、わたしはお調子者、、、笑)。

 

 

ブログの内容はコンサートのプログラミングに関するものだったが、数年前に書いた駄文に

久々に目を通していて、「考え方としては現在とそんなに変わってないなぁ(成長していない

なぁ)」という部分と、「現在の自分はこう感じている」と新たに確認した部分もあるので、

覚え書き程度に残しておきたい。

あの時書き綴ったプログラミングの考え方は、今読み返すとやはりクラシックミュージシャン

の視点に基づいたものであり、食文化に例えるならば西欧料理の味わい方のセオリーっぽい。

だがその後さまざまな食文化を体験するにつれ、そこから出るやり方を模索しなければクラ

シックの未来もないのでは、、、という気がしている。

 

 

コンサートやリサイタルを大きなホールでやりたくない、という思いは年を追うごとに強く

なっている。

コンサートホールというものの構造上、空間が舞台と客席にスッパリ二分される気がするが、

私にとってはこれがなかなかの曲者で、、、。

客席からステージ上の出来事を眺めているというこの構図では、狭いサロン会場でのコンサート

時のような、《出来事の”当事者”意識》が客席から起こりにくいのを感じる。あとはホールの

場合、演奏者としての身振りを(歌舞伎や宝塚などの舞台演劇的に)大きくする必要が出てくる

のがわずらわしい。それってもちろん大物演奏家には向いていると思うが、、、。

 

 

空間が二分された時、ステージ上の《わたしたち》客席の《あなたたち》になりがちであるし、

そういう啓蒙的コンサートにもこれまで数多く接してきたが、今現在私がやりたいのは、

ステージと客席が共に《わたしたち》と感じられるようなものである。フォルクローレの

木下氏は、いかなる規模の会場でもそれがやれる方なので尊敬している。

 

 

客席もステージ上も、ジャンルによって【固有の身振り】が存在している。

勿論フォルクローレも、ブラジル音楽も、ジャズも、邦楽も、古楽も、、、。

そうしたなかでコンサートホールというものが、クラシック特有の身振りを増幅しているように

感じるのは私だけか?

 

 

現在の私がもっとも興味あるのは、

これら【固有の身振り】を取っ払った時に残る”なにか”

である。

我々ミュージシャンはこれらに守られてる部分が大きいと思うが、まずはそれに拠ることなく

両足で地面に立ちたい、と私の場合、思ったりするのである。

 

 

やはりコンサートという時間と空間を使って”どう遊ぶか”、あるいは普通のコンサートと思って

足を運んだら、予想外に面白かった、、、というようなことを各自のやり方で模索したら面白く

なるんじゃなかろうか。

プログラミング、集客、演奏、全ての過程を通して技術と気持ちを使い、終わったらそれらを

一旦捨て、また新たなことも考える、、、。

 

 

”予想を少しだけずらす”が、曲の中の偽終止、転調、ゲネラル・パウゼ等と同じ《コンサート

組み立て》の技術的側面かな、、、などと漠然とではあるが最近の私は感じている。

 

2019.7.18.

 

カテゴリー: エッセイ, 明日のギター演奏の為に   パーマリンク

脱(?)”コンサート” への4件のコメント

  1. 葉隠尻巣() より:

    ギターの魅力を感じたのは、コンサートではなく、友人等が目前で弾くのを聞いたときでした。何と美しい曲か、美しい音かと、こころを奪われたものでした。今でも、レッスンで先生が目前で弾かれるときは、「美しいな!」「自分も先生のように弾けるようになりたい」と、思うことは数知れずあります。でも、この同じ先生がホールの壇上で弾かれるのを客席から聞いても、上手だということだけで、こころが揺さぶられることはありません。しかし、ギターではなく、ピアノの場合は、ホール一杯に鳴り響いて、しばしば素晴らしいと感動します。
    思いますに、クラシックギターは所詮書斎の楽器だと思います。そこに魅力があるのだと思います。逆に、書斎でピアノをガンガン弾かれたら、どんな名演奏でも騒音でしかないと思います。

    • ryuji より:

      葉隠尻巣()さま

      コメントいただきありがとうございます。クラシックギターをされてあるのですね。
      目の前で演奏されるギターの魅力は格別ですね。私はよくタレガが演奏し、その周りを友人たちが超至近距離で取り囲むようにして耳をそばだてているあの有名な写真を思い出します。リョベートにも似たような写真が残ってますから、あれがあの当時もっとも贅沢な”サロン的ギター”の味わい方だったのかもしれません。ふたりともギターの音量の強いレンジよりは弱いレンジを巧みに扱う名手だったかと思います。
      ピアノの歴史でもグラナドス、マラッツ、モンポウなどスペイン人ピアニストの自演を聴くと、ホール的演奏よりはどちらかというとサロン的演奏の印象を受けます。《スケールの大きさで勝負》というよりは《小粋であり繊細さを大切に》しているような感じといいますか、、、。

      一方でホールにおけるギター演奏で私が感動したりするのは、ステージ上のギタリストが気張ってガンガン弾いている時よりも、むしろ広い空間で息をのむほど繊細な演奏が繰り広げられている時です。そんな時はサロン以上に孤独な美しさという一面が垣間見られる楽器だな、、、と感じたりします。
      大きな会場で自信をもって弱く弾くことができる人を、専門家愛好家問わず、私は尊敬するし惹きつけられます。

      ご自身が体験されたように、ご友人の前でぜひ至近距離演奏をおねがいします。そしてクラシックギターの魅力をどうぞ目の前の人に手渡し続けてください。

  2. S.Hongou より:

    以前に、「自分は定食屋さん」みたいなことをおっしゃっていらしたのを思い出しました。
    スーパー定食屋さんは、何を食べても美味しくて、ときおりうなっちゃうようなお料理がでてくる。
    常連さんとコアなファンがついてくる。

    今年の3月になさったコンサートや、老舗珈琲店でのコンサート。
    目の前に座り込んで申し訳のですが、音を細胞の隅々まで取り込めるようで、いつも楽しいうれしいです

    先日あるイベントをいたしました。ハコは大きかったのですが、ギターが好きな方、音楽が好きな方にお運びいただき、とても素敵な時間でした。

    弾いていて、皆さまに見守っていただいてる温かみも感じることができました。

    新メニュー、楽しみにいたしております。

    • ryuji より:

      S.Hongouさま

      イヴェント開催おつかれさまでした。参加された皆様、楽しいお時間を過ごされたようでなによりです。
      今回のハコは”大練習室”だったから、大きいとはいえ、いわゆるコンサートホールのような分離感はなかったのではないでしょうか。

      コンサートホールにおいても木下尊惇さんが獲得するあの一体感は、フォルクローレというものが本来持っている”参加型”の性質ももちろんありますが、木下氏がステージから声や演奏を会場全体にむかって投げかけている”あの姿勢”をつねに保持し続けるからだと、これまでに幾度もとなりで体験させて頂きました(内容が希薄なまま、ただ投げかけることが目的になってしまってるフォルクローレミュージシャンも結構いますが、、)。

      私にとっては、ハコの大きさや音響の問題より、やはり”空間分離”のほうがコミュニケーション上やっかいに感じます。まあ、分離そのものを利用し、楽しむことを考えればよいのでしょうが、、、。

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