私にとって

 

唄うにしろ楽器を演奏するにしろ

”発音する”ことは、からだをつかう能動的なこと

そこで鳴り響いている音を

”聴く”のではなく

”聞こえる”のは受動的なこと

 

”聞こえる”という受動的な佇まいの方が

”感じる”ことに、感覚としてより近いのでは、、、

 

そのとき”演奏”は能動と受動の循環

太古より地球上を循環し続ける水のような

おなじ水なのにおなじ現れかたは二度とない

 

 

毎日の生活でさまざまな音楽にとりかこまれている

なくなるかも、、、

という危機に瀕しない限り

ひとは音楽が人間にとって根源的に必要なものだと気付かないものかもしれない

水のように

火のように

電気のように

ふるさとのように

みぢかなひとのように

 

 

音楽で癒されるか、、、

それは結果であって

”癒しのための音楽”というものはうそっぱちだ

”感動するための音楽”も、もちろんない

なにかの”ために”音楽は存在しない

きくひとと、ただ共に”ある”だけ

 

たいそうなものでもなかろうが

「ひととひとのコミュニケーションのツール」

と言い切るほど矮小化したくない

 

 

演奏に現れるものは

そのひとのその日の生きかた

逃避の場ではなく

日々の生活と向き合っているひとにのみ、ひらかれる世界

 

おなじ時間は二度とない

 

2019.5.3.

 

カテゴリー: エッセイ, 生活の中の音楽 音楽の中の生活   パーマリンク

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