音符と演奏のはざまで、、、(その3)

 

音の動きを”視覚的”にとらえることと”聴覚的”にとらえること。

 

このふたつの間に横たわる《齟齬》《誤差》から浮き出てくる影響については、

「存在しないもの」

として暗黙の裡に流されている気がする。

個人的な話であるが、ソロ演奏において私は頻繁に目を閉じる。それはよく誤解されるように

”自分の演奏に酔いしれている”わけでは決してなく、視覚的能力を一時的に休ませたい、

あるいはそこから一時的に解放されたいときにそうしているようだ。目を閉じた方が、思考から

感覚へと脱出しやすい(ひとまえで自分の演奏に酔いしれるなんて、そこまで恥知らず

じゃないぞ~!バカにするな~!)。

 

 

その昔ブラジルのシンガー、カエターノ・ヴェローゾが12音技法で作曲した「ドイデッカ」と

いう曲をジャズ・ミュージシャンとやったことがある。12音技法なので当然コードは無い。

音符を書いたコード無しの譜面を渡したところ、「コードが無い」「どーすりゃいいんだ?」

と四六時中騒いでた(結局訳の分からないテンションだらけのコードネームを自力で書きこんで

ホッとされていたが、、、)。

また、ある実力派ジャズギタリストがクラシックギターのレッスンを受けに来られてた時の

こと。ヴィラ-ロボスの「ショーロス一番」初回レッスンを終え、翌週来られた時には、譜面に

ビッシリとコードネームが書き込んであった、、、。

 

 

これらのことは、なにを意味するのであろうか?

つまり多くのジャズミュージシャンにとって、コードは”心の拠りどころ”であり、”コードが

書いてない譜面”というのは、不安を煽る以外のなにものでもないという事実。クラシック

ミュージシャンにコードネームだけを渡すのと同じように、、、。

ただコードネームを明らかにすることはなにもアドリブ目的だけではない。

クラシックであろうとジャズであろうと、コード進行を把握することにより楽曲分析(アナ

リーゼ)が容易になるという利点がある。このことは強調したい。

 

 

プレイヤーが音符に向かう時とコードに向かう時で、どのような感覚の違いが生じるのか?

コードの場合は、気持ちがおおらか(大雑把)になれる気がする。

音符の場合は、気持ちがどうしても正確かつ几帳面にならざるを得ない。

だがたとえ音符表記であっても《すべての音が平等で、均一に響かせる必要》はない。

楽譜上、音符のタマの大きさが統一されてあるので、実際の演奏に当たっては、

「しっかり鳴らす音」か「捨て音(ゴーストノート)」か

演奏者が各自判断しなければならない。

そういえばヴィラ-ロボスの自筆譜(ギターソロ作品)でメロディー、バスは《大玉》、

内声は《小玉》で書いてあるものがあったなあ、、、あれは見易い。

 

 

「音符で音楽をやるメリット」も勿論ないわけではない。

 

*作曲やアレンジがしっかりしてさえいれば、演奏者が”自分の能力”以上のものに触れる機会を

もらえること(響きを体感することができる)

*コード的でない、より緻密なアンサンブルも可能になること

 

 

「音楽にジャンルという垣根(国境)はない」とよく言われる。

セリフとしてはカッコいいが、垣根はあるし、あってもいいと私は思っている。

垣根を越えるとき、お互いの領域に対しその都度《敬意もしくは感謝》があるかどうか、、

の方が、垣根をとっぱらって統合することよりもむしろ大切なことではなかろうか。

お互いの集落で使っている言語や文化のなりたちの違いは厳然として存在するのだから。

 

(おわり)

 

2019.3.8.

 

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