シロウトのすゝめ

 

専門的なことに永く携わっていると、評価基準の中心に《技術的なこと》《物質的なこと》を

置きがちである。

これはおそらく歌でも絵画でも料理でもおなじではなかろうか。ギターの世界であれば

「右手のタッチが雑音が少ない」とか「指の動きが安定している」など、プロ、愛好家を問わず

”爪のカタチ”から”弦のメーカー”の話まで、クラシックギターマニアの盛り上がる話題は

おおよそ決まっている。

ちなみにそれが重要でないとは言っていない。

 

 

ただそういった人々から、音楽そのものの話、作曲家の話、他の分野と音楽の共通点などに

まつわる話などはほとんど出てくることがない。これは一体何を意味するのであろうか。

つまり自分の生き方そのものを直視するよりも、”単なる自分の好み”を”評論家的立場”に

すり替えてウンチクをたれる方が人間楽しいし、ラクだからである。

ものごとの”深さ”を追求するのが専門家であるにはちがいないが、横に広がる水平的な

”広さ”を考えた時、専門家よりも例えば生徒さんたちの方がはるかに広かったりする。

 

 

<狭く深く>でなく、かといって<広く浅く>でもなく、《広く、ときどき深く》ってよく

ない?(笑)

 

 

専門的になりがちな自分を時に突き放した状態で見るために、私が日常心がけているのは、

まっさらの素人の視点に身を置くこと。技術よりも感触を追いかけること。その道の玄人を

目指さないこと。

最後に(私よりはるかに視野が広く深い)作曲家、三輪眞弘氏の言葉を紹介して終わりたい。

このひとの言葉はなんでいちいち私の心に響くんだ?

 

 

 

つまり芸術家というのは美を徹底的に探究するという態度こそがプロとしての望ましい姿勢だといわれる。僕は最近、それを「究極主義」とよぼうと思ってるんですけど、つまり、科学者は真理を追求すれば他のことはもうどうでもいい、関係ないという姿勢。あるいは、ラーメン屋さんは究極の一杯を作るのが立派なことで、他のことはなんにも考えなくていいという態度。このような姿勢というのは、たとえばお金さえ儲かればほかのことはどうなってもいいという態度とまったく同じ形をしているわけですよね。そして、そういう究極主義みたいなものがたぶんこの世界を、すごく悪く、無責任なものにしているような気がするわけです。つまり、それぞれの専門家が自分の分野について互いに「素人に分かるはずがないから黙っていろ」といっさいの門外漢の素朴な疑問や意見などを拒絶し、また、「素人」のほうも自分の生存にかかわるような大切な問題でさえ専門家といわれる人々に「丸投げ」してみずからの頭で考えることを放棄してしまう、、、、、今回の原発事故はまさにそのような社会のあり方の当然の帰結のようにも思えてきます。(後略)

~『アルテスVOL.01/2011WINTER』より

 

 

2019.1.18.

 

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