”ひびき”について思ういくつかのこと(その4)

 

疑問みっつめ

【楽器の”正しい”響かせ方】

こんなものあるのだろうか?

 

 

セゴビア全盛の時代には巨匠たちの鳴らし方、響かせ方が多くの人によって推奨され正しい奏法

とされてきた。

セゴビア、レヒーノ、イエペス、ホセ・ルイス、ギリア、ペペ、ポンセ、、、彼らひとり

ひとりの鳴らし方、弾き方は全く違うといっていい。だが巨匠たちの演奏それぞれに《伝統を

背負った美意識》のような味わいが感じられ、人々を魅了した。

 

 

それら巨匠的美意識が体質的に合わないギタリストたちは、より合理的なメソッドやテクニック

を確立することで、次の時代をひらいた。カルレバーロ、バルエコ、ラッセル、、、、。

J.ブリームとJ.ウィリアムス、二人の英国紳士はそのいずれにも回収されない異物のような存在

として時代のはざまに居たように思う。

もちろんこれらのことはあとの時代から振り返って、見取り図的に述べたものであり、実際には

もっと複雑な現実があることは重々承知している。

 

 

ただここで述べたいのは、先に名前を挙げさせて頂いた先人達本人よりも、その弟子たち、

フォロワー達によって「これが”正しい”ギターの奏法であり鳴らし方だ」という言い回しで

それぞれの理論が拡散されていったという事実である。理論的に整然としているものほど

違う意見に対して不寛容であり攻撃的になる現場を、私も過去たくさん目の当たりにしてきた。

 

 

歌の場合はどうだろう?

発声の基本は腹式呼吸のように言われるが、オペラ歌手や声楽家がヨーロッパの言語をクラ

シック音楽にのせて発声するには確かに向いているかもしれない。だが声楽家が日本歌曲を歌う

ときの違和感たるや「日本語を響かせるのに、その発声法は本来向いてないのでは?」と私に

思わせるほどのものである(ものを投げないでください!)。

 

 

古楽器の場合はどうだろう?

「リュートではこういう鳴らし方」「19世紀ギターの正しい鳴らし方」という言葉をしばしば

耳にするが、情報網が限られた当時、さまざまな鳴らし方や多様な価値観が現代以上に混在して

いたことは想像に難くない。「リュートが奏法的にイン・サムかアウト・サムか?」などの

論争も「そのいずれも当時やっていた」とするほうが、より現実的な気がする。

 

 

パバロッティと美空ひばりとボブ・ディラン、、、歌い方に関して「このひとの発声が基本」

などと固定するのも、同様に現実的でない。

ジャンルの多様性を考えると、なおさら”正しい奏法””正しい鳴らし方”論議が無意味であること

を感じてしまう。「からだに無理がかかりすぎないかどうか」を個人個人で判断できさえすれば

現実的にはたぶん困らない。どんな響きであっても音楽することはできる。

小さな響きであっても大きな響きであっても、、、

まろやかな響きであってもトゲトゲした響きであっても、、、

美意識はひとそれぞれだし、チェリビダッケがインタビューで語っていた言葉

「美は音楽の最終目的ではない(”餌だよ”とまで言っていた)」

を思い起こすにつけ、個人的には肩の力が抜ける思いがする。

 

 

だが若者たちを見ていると、そういった権威主義的束縛からあきらかに解放されつつあり、

さまざまな価値を認めつつ多様性を受け入れる中で「私はこれが好き」と言える時代に

入っているのを感じる。”権威に振り回されないこと”の一長一短に関しては、現在の私には

まだなんとも判断しかねる部分ではあるが、、、、。

 

(おわり)

 

2020.11.13.

 

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”ひびき”について思ういくつかのこと(その3)

 

前回お話したことは文系人間の思い描いた、あくまで個人的な”イメージ”の話なので、実際

なんの科学的根拠もないフィクションである。

しかしいつの日か”納得のいく裏付け”が欲しい、、、。

 

 

”ひびき”に関する三つの個人的疑念のなかで、今回挙げるふたつめは「決して個人的妄想では

ないはずだ」と信じている。

では、そのふたつめの話、、、

 

《コンサート当日に楽器及び会場の鳴りが徐々によくなっていく》

 

”なにそれ?初めて聞いた”

という方もいらっしゃるかもしれない。

でもこれはクラシックのコンサート会場では、時折耳にする言葉のひとつである。

 

 

つまりどういう説かというと、例えばクラシックのコンサートが前半から後半に進むにつれ、

楽器そのものの響き方すなわち反応が次第によくなっていく、、、

のみならず”会場そのもの”の響きの反応が次第によくなっていく、、、という話。

シチュエーションとしては、コンサートが後半にさしかかった頃、会場の後ろのほうで聴いて

いた主催者、楽器(制作業・販売業・収集)関係者、時には音響関係者といった人たちが

「いやー、後半になって楽器がどんどん鳴ってきた」

「ホールの鳴りが後半どんどん良くなってきましたね」

といった類いの発言をする、あのことですよ。

あれを耳にするたびおじさんは、まだおにいさんの時分から内心思っていた。

「ほんとかよ?」

 

 

たしかにクラシックギターのホールでのソロ・コンサート冒頭、音が遠くて聞き取りにくいと

感じていたのが、コンサートが進むにつれ、次第に聞こえ方に変化を感じることは私もある。

が、それは日常的な外の雑踏からコンサートの音に自分の耳が次第に慣れてきたということで

あって、よしんば楽器の鳴りがよくなったとしても、”よく聞こえ始めた要因”としてのそれは

ほんのわずか、ましてや演奏の響き(振動)に会場そのものが共振し始め、会場そのものの鳴り

がよくなると主張する人は、よほど”けもの”並みの聴覚をもっている稀な方としか思えない。

そのひとたちはコンサート当日、演奏家がホールにおいてすでに何時間もかけてリハーサル

およびゲネプロをやっているという事実を忘れているのだろうか?

 

 

お客さんが会場に入ることで響きそのものは大きく影響を受けるが、それが徐々によくなって

いくというのは、文系の私にとってもあまりに幻想(あるいはオカルト)じみて見えるし、

お客さんの耳が徐々に会場のひびきになじんできて、音を聞き取りやすくなると考えるほうが

違和感がないのだが、どうだろう(ものを投げないでください!)。

 

 

もちろん私が述べたこともすべてにおいて個人的想像であり、なんの科学的裏付けもない。

だが、主催者、楽器関係者、音響関係者のひとたちが「後半ホールが鳴ってきましたねえ」

「楽器がどんどん鳴ってきましたねえ」と景気づけのように発言し、一般の人たちもそれに

対し「なるほど、耳のいい人たちにはそういう類のことまで感じとれるものなのか」「自分にも

そう聞こえたし、もしかしてオレって耳がいい?」などと感じている状況を目の当たりにするに

つけ、私は昔から思ってきたし今現在も思うのである。

「ほんとかよ?」

 

(つづく)

 

2020.11.3.

 

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”ひびき”について思ういくつかのこと(その2)

 

ヤフーニュースの見出しを流し読みしていて、発信元が信頼できると思えるものを中心に

拾い読みしていく(偏ってますねー、わたし)。

近頃、自分が気になるのは《ボクシング》《将棋》ときどき《テニス》関係の記事である。

いずれも素人なのだが、たとえ門外漢の私でも井上尚弥、羽生善治、豊島将之、藤井総太、

大坂なおみ諸氏のご活躍に、毎度胸が高鳴る思いがする。

 

 

このあいだのジョコビッチとナダルの全仏オープン決勝は手に汗握る試合だった。

豊島氏と羽生氏の竜王戦第一局も手に汗握る対局だった(ちなみに今日明日は名古屋のお寺さん

で第二局)。

んで、先日のロペスとロマチェンコの4団体統一戦だが、判定でいろいろと物議を醸しだしては

いるものの、内容としては非常にハイレベルな攻防だったと個人的には思っている。

しかし今回判定で敗れたロマチェンコに対する、手のひらを返したような多くの人の冷たい

コメントを見るにつけ、日頃絶対に手をつけない領域のコメント欄におじさんはおもわず

投稿してしまったぞ。

『試合後のロマチェンコが、対戦前から痛めていた右肩を手術した』の記事に、何件かの

コメントで「言い訳するな!」との言い回しが飛び交っているのが、どうにもスジ違いに思えた

のだ。

「”手術をした”というニュースであって、”言い訳”した訳ではないと思うのだが、、、」と

控え目に出したら、速攻で”ダメね!”のマークが付けられた。世の中、なんて攻撃的な野郎が

居るんだ(苦笑)。

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血の気が多いひととは会話が成り立たないということが身に染みたおじさんは、今回冷静に話を

すすめてゆきたい。

前回お話した”ひびき”に関する三つの個人的疑念。まずひとつめは、、、

《演奏人数が増えると音量が増す》

これは本当だろうか?

ここで言う音量とは、”音の大きさ”の事であり、”聞こえ方”のことではない。

なにが言いたいかというと、ひとりで演奏しようと100人で演奏しようと《音量の最大値》

そのものは変わらないんじゃないか、ということ。

 

 

響きのあるホールのような”閉じられた空間”では、反響の問題も個別にあるので、ここでは

見晴らしのよい山のてっぺんで演奏している状況をイメージしていただくとよい。

複数の人数で演奏すると《音の発信源の面積》はひろがるので、広範囲の聞き手に音量の

最大値をおのずと届けやすい。

 

 

フォルクローレの話として以下の事を聞いたことがある。複数の人数で一本のメロディーを

ユニゾン演奏するときに起こる現象についてである。たとえばケーナなどの笛で楽器が手作り感

満載な場合、奏者ひとりひとりのピッチにズレがあり、一本のメロディーを同時に吹いた時、

うなりが生じることになる。そのうなり効果によって野外でも音が遠くまで”聞こえる”という

のである。

つまり多人数の演奏により起こる《ピッチのずれ》《さまざまな楽器による音色の共存》と

いったことは、音が遠くに伝達することを助ける、すなわち”聞こえやすい”ということに

つながるが、その”聞こえやすい”を”音が大きい”と混同していないか?ということが私が長年

思っていることなのである。

 

 

つまりギターをソロで弾こうが、そのソリストと同じレベルの音量最大値を持ってるギタ

リストが10人集まって一斉に弾こうが、その最大値そのものは変わらないんじゃないか、

というのが私の説。繰り返すようだが、複数で弾くことにより《音の発信源の面積》がより

広範囲になるのと、《音色が複雑化》することで、結果として”遠くまで聞こえやすく”なるのは

おそらく間違いない。ただその現象を「大人数だと音が”大きくなって”聞こえやすい」と

片づける場面に遭遇するたび思うのである。

「ほんとかよ?」

 

(つづく)

 

2020.10.22.

 

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”ひびき”について思ういくつかのこと(その1)

 

2002年の12月、私はブラジルのリオ・デ・ジャネイロに向かっていた。

音楽評論家の濱田滋郎先生が書いてくださった紹介状を片手に、ヴィラ-ロボス記念館を

訪れるのが、その旅の一番の目的だった。

トランジットは一回で済むはずだったのに、大雪のシカゴ空港で5~6時間の足止めをくらった

挙げ句、急遽マイアミで一泊するよう航空カウンターで告げられた。今思い返すと、言葉の

不自由な異国の地で予期せぬ事態に遭えば、小心の私としては大いに動揺するはずなのだが

この時は何故か落ち着いていた。というか、事態そのものを楽しむ余裕があった。

なにしろ一日かけて北から南に、地球をタテに移動するのは生まれて初めてのことだ。どうせ

ならじっくり味わいたい、、、。

 

 

マイアミに到着し空港に降り立つと、シカゴとは打って変わって、なまあたたかい空気が

私を包みこんだ。赤道に近づいたのだから当然だ。航空会社が用意したホテルにチェックインし

翌日リオ行きの飛行機に無事乗ることが出来た。リオの気温はどうも現在40度らしい。

ははは、、、

ところが次に私を襲った事態は、とても笑って楽しめるものではなかった。

 

 

目的地のリオに着陸するために飛行機が高度を下げ始めたと同時に、アタマの中を猛烈な痛みが

おそってきた。まさに割れんばかりのすさまじいやつ。両手こぶしを握り締め、着陸までの

30分間、あぶら汗をたらたらと流してひたすら耐えるしかなかった。

こんなのは初めての経験だった。

 

 

それから約半年後、わたしは脳腫瘍切除の為、福岡市内の病院に一ヶ月間入院することに

なった。病名は”聴神経腫瘍”。

腫瘍が左の聴神経にかかるほど脳内で大きく育っており、手術は頭を切って聴神経ごと腫瘍を

取り出さねばならない13時間にわたるものだった(もっとも私は全身麻酔でただ寝てるだけ

だったが、、、)。

 

 

よって術後から現在に至るまで私の左耳はつんぼである。術時に顔面神経を削ったため、

顔の左側は麻痺したままであり、左耳には耳鳴りだけが残っている(耳鳴りと聴神経の有無は

関係ないらしい)。

共演者には常に自分の右側に居てもらわねばならず、他人と並んで歩くときもそのひとの左へ

左へと回り込まねばならない。まるで柔道かボクシングのごとき感覚である。事情を知らない

ひとには「こいつ、なんでこっち側にばっかりきたがるねん?」と思われてるかもしれない。

 

 

片耳になって気付いたことがある。

《響きによって空間の広さを感じたりすること》ができなくなった。

つまりは音の立体感を感じるのは両耳あってこそなのだ。

具体的な話としては、本番前のコンサートホールのなかで目を閉じて両掌を打ってみるとよい。

その響きによって”空間的な広さ”や”音のひろがり”を感じとることができるはずだ。

片耳だとそれがない。音はただ”情報”としてべたっと脳に入ってくるだけだ。音は聞こえても

響きを感じることはない。

 

 

つまり術後以来17年間、現場での音響問題に対処する場合は、それまでの両耳人生での経験を

基にした”勘”で動くしかないのがわたしの実情である。

ただ今回のブログでとりあげたいのは、そんなつまらない話ではない(ひとによってはさらに

つまらないかもしれないが、、、)。

”ひびき”というものに関して、ときおり仕事現場で耳にする《伝説》の中で、長年に渡り

「ほんとかよ?」と私個人が疑いつづけているものを、次回三つほどとりあげるので、こころに

曇りのない頭のよい誠実な人にぜひ検証してもらいたいのである。

検証の結果として「あんたのいってることはトンチンカンだよ!」というお言葉が返ってきても

より確かな答えを得られるのなら、それで一向にかまわない。

 

それではまた次号!

 

(つづく)

 

2020.10.10.

 

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ギターの効果的な習得法

 

本日はオフ日、、、というわけで今日もカレー作りにはげむ私。

チキンカレーは安定のおいしさになってきたので、今日は初のビーフカレーに挑戦中。

やはりこのワクワク感は初心者ならではのもの、、、いいもんですな。

ドラムンベースや70年代プログレをガンガン鳴らしながら玉ねぎを炒めていて、ふと来年の

企画が思いついた。これはちょっとすごいな、、、実現したら面白そう!

やはりクリエイティブなことをやっている最中は、他のクリエイティブにつながりやすい

などとブツブツ言いながらも、カレーはいよいよラスト60分の煮込みタイムに入った、、

 

 

身内話であるが、兵庫にいる甥っ子は現在高校三年生。将来はDJを目指して勉強中である。

じつは私、甥っ子がそういう話になるまで

”DJ”と呼ばれる人達がいったいなにをやっているのか、、、

ということにまるで無頓着であった。

ただ、わからないなりに、こうは考えていた。

「通常、音楽をやる人は、歌にしろ楽器にしろ”技術習得”の為に膨大な時間を費やす。」

「そこを生業としている自分ではあるが、一方で技術習得に年数をかけ過ぎずひとびとが音楽を

楽しむ手段が世にあることは、それ自体はすばらしいのではないか?」

ところが先月その甥っ子が、うちの教室に余ってころがっているエレキギターのうちの一本を

”ほしい”と言ってとりに来たのである。

DJが何故に演奏技術の習得???

そんなおじの疑問に甥は丁寧に答えてくれたが、かいつまんで言うと「作曲の勉強にコードが

演奏できる楽器が必要」とのことだった。なるほど、、、

 

 

そこまではよかったが、、、

「まずはじめにどういうことを練習すればいいですか?りゅうじおじさん」

この質問は至極真っ当なのだが、私は妙に面食らった。だけでなく、なんでこの問いに自分が

そこまで面食らうのか、その理由がまるで思い当たらないのである。

 

 

クラシックギターの場合だったら「そうですねー、取り敢えずドレミからいってみましょか」

となるのが、エレキだと、どうしてもその言葉がノドをつっかえる。なぜなら「俺はそんな

やり方でエレキは練習しなかったぞ、、、」ということなのである。

自分の場合、中3でエレキ初めて持つ前にクラシックやフォークをすでに弾いてたし、いきなり

やりたい曲(当時はアラームやブライアン・アダムス等のコピー)からやって、その中で

いろいろと覚えていったのである。

でもなんだかそれだけではない気もするなぁ、、、

 

 

ふと尋ねてみた。

「周りでギターを弾いてるともだち居る?」

すると音楽仲間のひとりが最近ギターを購入した、とのこと。

そうそう、これだよ!これを忘れていたんだ。

「”ギター”って楽器は、ともだちと”あーでもないこーでもない”と言いながら習得していく楽器

なんだよ」

おじさんはようやっと確信をもって答えることが出来た。

 

 

そう、これは不思議とギターという楽器が、本来もち合わせている特性(キャラクター)の

ひとつなのである。

たとえばピアノを長く弾いている知人(プロアマ関係ない)が周囲にいたら、こんな質問を

投げかけてみるとよい。「ピアノを泣きながら練習したことありますか?」

すると意外に多くの人がその経験を持っている。

つまりはこれも楽器のキャラクターすなわち《ピアノという楽器が本来持ち合わせている特性の

ひとつ》と言える。要因は分析すればきっといろいろあるのだろうが、あの”大きな楽器と

向かい合う演奏スタイル”が大きく作用している気がする。

 

 

私はレッスン中、生徒を泣かしてしまったことはこれまで全く無いこともない(あるんかい!)

が、鼻水や無意識のよだれを側面板に垂らしたことはあっても、涙を垂らしながら練習した

経験は皆無である。抱きかかえるサイズの楽器”ギター”の場合は、ピアノほどそういう心理状態

にはならないんじゃないかな。管楽器もあまりそういうイメージではない。泣きながらじゃ

たぶん吹けないだろうし、、、

 

 

で、ギターに話を戻す。

クラシックにしろフォークにしろエレキにしろ、ギター片手に友人と向かい合って

「あの曲のココの運指、どうしてる?」「セゴビアってこう弾くよねー」「なんか最近トレモロ

が調子いい感じ」「へえ~どれどれ?」「1980年チューリッヒのライヴでジミー・ペイジが

こう弾いてた」「この曲はジム・ホールチェンジってのがあってですね」「弦はいまどこの

メーカー張ってるの?」

 

 

(下世話なものから有意義なものまで含む)こういった雑談の数々に、どれだけ育ててもらった

ことだろう、、、と今にして思う。

先日開催したレオナルドと池田氏と3人でやったコンサートを終えた数日後、会場に足を運んで

くれたオカリナ、ケーナ奏者の和田名保子さんが「三人で切磋琢磨されてる感じが伝わって

きました」というコメントをくださった。管楽器奏者の和田さんから見ると、やはりそれは

ギターという楽器の特性として映るのだろう。

 

 

ギター片手に対話しましょう、みなさん。

言葉で、そしてプレイで。

そこで得るものは、《レッスンで先生から受けるアドバイス》ともちがう、《部屋にひとり

こもって特訓することで得るもの》ともちがう、またべつな”なにか”であると、確信持って

おじさんは言うことができる。

 

 

2020.9.29.

 

 

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