ある朝

 

今朝起きたとき

谷川雁の感覚と一瞬だけ

共鳴した気がした

すなわち「東京へゆくな  ふるさとを創れ」といった彼が

何故東京に出たのか

 

 

矛盾や裏切りと論ずるより、、、

彼は自分のからだをつかって結果

詩を書いたにすぎないのではないか

 

 

意識や理解の土俵にあげることで

向上し次に進めることもあれば

誤解や怒りの袋小路にからめとられることもある

 

 

” Don’t think. Feel ! ”(ブルース・リー)

” Don’t feel. Think ! ”(私の友人)

 

 

このふたつが同居しているのが

現実世界だと考え

感じている

 

 

 

 

 

あなたはどげんですか?

 

2020.3.29.

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”強さ”って、、、

 

いや~、こころから残念!

まさかというか、やはり延期になってしまった、、、中止じゃないだけまだマシだけど。

え?なにがって、そりゃ井上尚弥&カシメロ戦ですよ!

今、声を大にして私は言いたい。

「コロナのばかやろ~~~~っ!」

 

 

今年に入ってから毎朝(一日も欠かさず)続いている40分のウォーミングアップ練習。

やることは3種目。【フィゲタ】【大聖堂三楽章】【アランブラ】である。

 

 

昨年くらいから右指の空振りが多く、ある日ふとフィゲタをやってみたら空振りのあまりの

多さにショックを受けた。が~ん!昔は得意だったはずなのに、、、

というわけでフィゲタ練習を日々カスタマイズしながらやっている。

 

 

大聖堂3楽章は、単に福山雅治氏に対する対抗意識だ(なんだそれ)。

 

 

アランブラはG.グールド方式でやっている。

グールドの練習法で割と知られているものに、《TVを大音量で流しっぱなしにして練習する》

というものがあった。それはつまり自分が出す音の影響を受けずに、演奏のための運動神経回路

のみをつくるのが目的と思われる(あくまで仮説。もし違ったらコメントで教えてください)。

 

 

で、アランブラ練習にあたって私がYou Tube でなにを流してるかというと、一流ボクサーの

試合やトレーニングの映像である。なぜってあれを見ていると”これだけハードに練習してたら

あんだけ強いの当たり前だ!”と心の底から納得できるのである。

これに比べたら自分がやってる練習はなんて軽いんだろう、、、

そう思うと練習がちっとも苦にはならない。

 

 

ロマチェンコなんて試合を観てる限りではそのスタイル(余裕があり過ぎ、時に相手をおちょ

くってる感じ)がどうにも好きになれなかったが、彼のトレーニング映像を観て、試合の時

以上の真剣なまなざしに感銘を受けた単純なわたし。なるほど本番で余裕がある人というのは、

練習の時の方が、試合本番よりも断然きついことをやっているのだ。

今日はカネロ、今日はメイウェザー、今日はパッキャオ、、、という感じで流しながら今日も

ひたすらトレモロに汗を流す、、、(かっこいい~オレ!)。

 

 

コンクールで上位入賞するひとの演奏は、音楽面やテクニック面の迷いやためらいがなく

シンプルに聞こえる。若い時は物事をシンプルに整理して捉えることで、ある”強さ”を得ている

ような気がする。自分や周りを見ての経験から言えば、コンクールというものはものごとの

複雑さに気付いていないくらいの若いうちにしか獲れない。

自分の音楽を世に問うことを目指したり、音楽の多様性や複雑さに踏み込んでしまったひとは

もはやコンクールから離れた方が無難である。海外に留学し音楽経験を深めて帰国したひとほど

コンクールで優勝できないのはそういうわけだ。

 

 

たしかに強さを手に入れたい時は《シンプルに捉える》あるいは《身辺整理》といったことが

必要になってくるのだが、今の私はそういった類の”強さ”を音楽に求めていない。

 

 

物事と向き合う時、シンプルに見えるものを一度複雑に見たうえでシンプルにかえす。

複雑に見えるものを一度シンプルに見たうえで複雑にかえす。

 

 

「えっ?複雑にかえすの?」「シンプルなままでいいじゃん」というひともいるかもしれない。

”シンプル・イズ・ベスト”という言葉に象徴されるように、物事の単純化が手放しでよしと

される傾向が世の中にはある。

その視点がよい具合に作用するケースももちろんあるが、全てをそこに集約するのは一面的で

無理があるように近頃の私は感じている。

 

 

”複雑”というのは、さまざまなことが同時に起こり、あるいは共存している現象。

それを”矛盾”と呼ぶ人もいることだろう。

だが世の中はむしろ複雑な事象の方が圧倒的に多いのだ。

大切なのは複雑な個々の状況に対応できる柔軟性ではなかろうか。

 

 

ちなみに話を冒頭のボクシングにもどすと、井上尚弥氏の強さの秘密というのは、ものごとを

ただシンプルに捉えているというよりは、実際の試合のリング上で五感を駆使して対応し、

時には戦法を変更し、瞬時にベストを選び取るという、いわゆる”柔と剛”がものすごい次元で

共存しているところだと勝手に感じている。言ってみれば複雑でありシンプルなのよ。

カシメロ戦が早く観たいなあ、、、。

とりあえず最後に一言。

 

”コロナのばかばか~っ!”

 

2020.3.19.

 

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“責任”とれますか?

 

巷のニュースでよく目にする【責任問題】や【謝罪会見】のたぐい。
最近ふと考えたのだが、”責任”というものは果たしてとれるものだろうか?
昔から日本社会に存在するものではあるが、その実態は本当にあるのだろうか?

「いい歳のおっさんがこんな常識的なことを疑問に思うのか!」と考える方もきっといらっしゃるに違いない。
だが正直に言う。わたしにはわからない。

そもそも誰に対し責任をとるのか、、、
特定の個人に対する場合もあれば、不特定多数の集団に対する場合もあるだろう。

では次
どうすれば責任をとったことになるのか?
謝罪や賠償、進退如何によって、被害を被った側が気が済むかどうか、、、。

それで気が済まない場合は?
当事者間においては「責任をとれなかった」ということになる。

だが本当は気が済まないケースであっても、”勝訴””賠償””懲役””辞職””謝罪”などの形式で不承不承カタをつけるのが現実だ。
それってつまりは感情を相手にした問題ではないか?とすると集団相手の場合は感情が複数あるため限りなく不可能にちかいかもしれない。
(当事者でない”世論”はとりあえず無視して考えたい)

責任をとることが本来無理だとしたら、その事実を認めて受け入れた方がむしろ感情はもやもやしないのではなかろうか。
「私が責任者です」「責任をとります」などと言うのは単に形式であって、その所在をはっきりさせることにのみ意義があり、確実に責任をとる方法なんて本当の意味ではありはしないのだ。

私は他者に対し責任はとらない(とれない)し、責任を他者にも求めない。
なぜこんなことを考えるのかというと、例のコロナの件だ。
私が開催するコンサートやイヴェントの会場で万が一感染したとしても私には責任がとれない。とれないものはとりようがない。

仮にコロナが感染しなかったとして、インフルや結核が感染した場合はどうだろう。
やはり責任とれない。同じように命にもかかわる問題だが、そこは現在論点にはならない。今はコロナの動きが一番の関心事であるよう報道の力で動かされている。
本来とれないものなのに「責任がとれないなら開催するな」という論法はそれ自体がおかしくないか?
仮に私が「責任とってギタリストやめます」と言うことで、感染した人が溜飲をさげるのであれば、多少は意味があるかもしれない(でもそれで感染者が健康になるとも思えない)。
そもそもこのことが”開催側の責任問題だ”という議論は今まではまるでなく、今回コロナによって初めて持ち上がった事であることは強調しておきたい。

それだけ多くの人が責任の所在を明らかにしようとするのは、やり場のない気持ちの捌け口(攻撃する対象)を求めているとしか思えない。”目に見えない脅威”という意味では、震災後の福島と似た状況に晒されているのだから気持ちはわからなくもない。
だが福島の方が実際問題としてはるかに深刻だ、とも私には思える。

 
コンサートを”自主的”に延期や中止にして、その時期の生活に我々自営業者が支障をきたす場合「政府や国に責任とって欲しい」とは全然思わない(そうなると「同情するなら金をくれ」というだけの話にいきつく)。
ただ延期や中止を今後”要請”された場合は「やだね」と言ってお縄になるか、生活に支障をきたしながらなんとか生きていくかは、様子を見ながら柔軟に決めたいと思っている。

わたしが主催するイヴェントに関してはここではっきり宣言する。
「責任は一切とれませんし、とりませんので、来たい方はそのつもりでお越しください」

ただ私にとって目の前のお客様が大切なのはいつもと変わりがない。
だからこちらで出来る精一杯の対策と準備はするつもりである。
それはこちらの個人的な気持ちであり、”責任として”やるわけではない。

様々な情報が飛び交う中、《他者が自分と同じだけの気遣いをしていない》ことを怒りをもって糾弾する人がネット上には溢れている。今回のブログ内容も私に対して腹を立てる読者も当然いるに違いない。
他者のモラルに介入しようとする”正義感”は苛立ちを量産する。
今回の件、わたしは個人レベルで冷静に対処してゆきたいと考えている。
そして他のひとの対処の仕方には介入したくないと思っている。

2020.3.5.

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ぼくの場合です(その2)

 

【②について】

前回、私が『ちょうちょ』のメロディーを弾く際、充実して演奏するために少なくとも三つの点

について検討することをお伝えした。②番目の”ハーモニー感”だが、「え?単音なのに?」

と思われるかもしれない。そう、単音のメロディーも潜在的にハーモニーを背負っているもので

ある(西洋音楽の場合に限る)。

もちろん一本の旋律に対するコード付けの可能性はたくさんあるのだが、考え得る限り

もっともシンプルなコード付けを以下に示す。

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「ちょうちょ」のメロディーに最低限付随するコードはC(トニック)とG7(ドミナント)の

ふたつだが、基本的に「トニックは安定感、ドミナントは不安定感をつかさどる」と考えた時、

ドミナント・コードの小節(例えば2小節目)に踏み込む瞬間、第一拍目の音に緊張ないしは

不安定感をしっかりと乗せて弾く。そしてドミナント・コードが続いている範囲では、その

緊張感を維持したほうがいわゆる”和声が感じられる単音演奏”になる。

この感覚をカラダに沁み込ませるためには「すこしオーバーかな」と自分で思えるくらいやって

みることをお薦めする。あとでいくらでも”薄味”には出来るから心配ご無用!

 

 

【③について】

<歌詞と発音の兼ね合い>についてだが、メロディーがオリジナル器楽曲ではなく民謡や声楽曲

の場合には、歌詞を検討することで演奏がより一層充実してくる。

たとえばスペイン語が全然堪能でない私であるが、メキシコのM.M.ポンセが作曲した歌曲

『エストレリータ』のギターソロ編曲版を弾くにあたり、原語歌詞はそらで歌えるように

している。

そうすると

「ここのふたつの音には”amor(愛)”という言葉がのる」

「このふたつの音は”sufrir(苦しみ)”と言っている」

などが見えてくる。さらに単語の意味だけでなく発声のひびきを知ることで、自分の楽器で

発音するときのイメージも具体的になる。

声にして唄うと、呼吸の関係から曲の速度(テンポ)も定まりやすい。

 

 

あとこれは番外編であるが、曲の核心にさらに近づきたい方は、その曲の”原曲”あるいは

”原典版”をリサーチしてみるとおもしろい。

今回例に出した「ちょうちょ」。わたしは長いことスペイン民謡だと信じていたが、そのルーツ

は、なんとドイツの歌らしいのだ。

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3番まであるらしいのだが、歌詞の内容は《幼いハンスちゃんが旅に出て母が見送り、7年の

放浪の末、日焼けした大人のハンスへと変わり、あまりの変わり様に誰にも分かってもらえ

ないが、再会した母親にはすぐにハンスだとわかった》というものだそうである。

この譜面を見ておもしろいなと思ったひとつは、拍子が2/2であること。4/4よりも確かに

2拍子でとった方がこのメロディーのキャラクターそのものには合っている気がする。

もうひとつはやはり、前回最後にお話した二段目と四段目の終わりが主音のドで結んである

こと。この感じがやはりドイツだな~(笑)。

このメロディーが他のヨーロッパ諸国や米国に伝わり、それぞれ現地化していったのだろう。

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一本のメロディーと向き合うだけでも、このように様々なことを考える事が出来る。

退屈などしていられない。

ただこのような向き合い方が理想だなどと言うつもりもないし、”どんな音楽でもむずかしい”

などと言いたいわけでもない。なにかと向き合う時、妥協はもちろん必要である。

 

 

「妥協点を現在より高く持ちたい」

あるいは

「シンプルさに退屈しないで充実して向き合いたい」

そんなひとに向けて、”ぼくの場合”を今回書いてみた。

 

 

2020.3.3.

 

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ぼくの場合です(その1)

 

 

仮に『ちょうちょ』のメロディーをギターで弾くとなった場合、あなたはどういうことを考え、

または感じるだろうか?

 

 

この問いにはもちろん正解などは無い。

それぞれが好きに弾けばいいのだが、「充実して演奏する」のと「退屈しながら演奏する」の

二択だったとしたら、前者を望む人の方が圧倒的に多いと信じている。

 

 

たとえば私が『ちょうちょ』のメロディーを弾く際、充実して演奏するために以下の三点に

ついては検討することだろう。

 

①音程についての意識

②ハーモニー感

③歌詞と発音の兼ね合い、そしてそれに伴うテンポ

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【①について】

まずメロディーを見てみよう。ちょうちょjp_page-0001

楽譜のように Cメジャー(C dur )でこの曲を見た時、主音はドであるがこの曲のメロディー

冒頭は5度音であるソからスタートしている。つまりはこの曲を弾き始める際に音階五番目の

音であるソが内包している固有の”緊張感”からのスタートとなる。

つまり何が言いたいかというと、仮にからだを完全にリラックスした状態で”ソ~ミ~ミ~~”

と弾き始めてしまっては、音程感がまるで無い演奏になってしまうということだ。

 

 

私は《カラダの緊張度》を測る目安として、演奏中は自分のからだを風船のようにとらえて

いる。

すなわち第一音(主音のド)を弾くときは、からだが息を吐ききってリラックスした状態。

第五音(ソ)を弾くときには、発音前にからだの肺のなかに空気を五分目まで溜め込んだ状態を

準備する。

一オクターブ上のドを弾く際には、肺八分目まで空気を溜め込んだからだの状態を準備する。

そのようにして音程の変化に伴う”緊張感の推移”を自然に表出しようと試みている。

 

 

この曲の音程でおもしろいなぁと個人的に思うのは8小節目と16小節目。

つまりこの曲をふたつに分けた時、それぞれの結びの音が第三音である”ミ”になっていること。

仮にこれが”ミ~ミ~ミ~~”ではなく”ド~ド~ド~~”だったら、場面がくっきりと終わった

感じがするのだが、最後ミに落ちることで、ちょうちょがひらひらと空中を漂い、とんでゆく

印象をうまく表している気がするのだ(いや~、ほんとうまい、、、)。

 

(つづく)

 

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