遠くへ行きたい?(その1)

 

今回の記事はグチではないことをはじめにお断りしておく。

 

 

私が暮らしている福岡市の人口は約159万人。福岡県の県庁所在地であり、政令指定都市

である。私が子どもの頃に比べると降雪量は随分減っているが、冬の体感温度は意外と寒く、

関東関西あたりから転勤で福岡に来られた方々は「九州なのになんでこんなに寒いんだ!」

とお怒りになる。 その辺りにお住いの方々の”九州”に対するイメージギャップを私が初めて

感じたのは意外に早く、 小学生の頃、、、。

 

 

友達の部屋で寝転んで読んでいたドラえもんの話の中で、ドラえもんの四次元ポケットから

出てきたマシーンでマラソンの練習をしていたのび太が、苦手だったはずの ”走ること”が

次第に楽しくなり、ついに九州まで走破する、というものだが、辿り着いたのび太が感動

しながら「九州だ!」と口にする場面。そこに描かれているのはどう見ても宮﨑、 鹿児島

あたりのいわゆる南九州の景色であり、私が日々生活している九州とは全然違うもので

あった。九州人としては、どうせならのび太が関門海峡を越え、巌流島あたりを横目に見ながら

その時点で「九州だ!」と叫んでほしかった。うちの前を通り過ぎやがったな、、、

こいつ、、、。

 

 

陸路で九州に入った場合、小倉を中心とした北九州市がまず本土からのお客様をあたたかく

迎え入れる。”北九州”という言葉のひびきから「それは北部九州を指すのだから福岡県自体が

北九州の一部」とイメージしてしまう本土のひとも実は少なくはない。 だが九州人にとって

”北九州”とは、先に述べた小倉を中心とする北九州市のことを指す。 ”福岡市”はその北九州市

から高速バスに乗ること一時間強さらに南西にくだることになる (新幹線だと18分)。

かのギターの名手、池田慎司氏はそれだけの時間をかけて月二回北九州からうちの教室まで

レッスンに来てくれているのだ(なんと尊いことでしょう)。

 

 

福岡市に話を戻す。

福岡市は7つの区に分かれており、人口順に言うと《東区、博多区、中央区、南区、西区、

城南区、早良区》となる。

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ふたたび”本土感覚的”立ち位置に立つと、これら福岡市のことを総称して”博多”と呼ぶあるいは

思っていらっしゃる方も少なからずいる。これは長らくのあいだ山陽新幹線の終点が博多で

あったことからおそらくそのイメージが定着してしまったと思われるが、すでにお察しのように

我々九州人にとって”博多”とは博多区エリアのことを指す。じつはそこは福岡市の中でも

とりわけ違う文化圏なのだ。

山笠などのお祭りは年に一度盛大に行われ、観光客で大変賑わうが、非常に冷たい言い方を

してしまうと、あれは博多エリアのひとの為のお祭りであり、他の大半の福岡市民にとっては

他人事なのである(きゃー、言っちゃった)。

 

 

だから本土の知り合いから「来週観光で博多に行くから博多でラーメン食べたい」と言われても

額面通り受け止めて博多駅近辺でおいしいラーメン屋を探す必要はなく、地元民として中央区

でも城南区でもご自分お気に入りのお店にご案内すればいいのであるよ。

 

(つづく)

 

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若い仲間で若返り

 

 

本番やイヴェントを終えると、すぐ次の準備にとりかからねばならない日々が続いている。

 

終わった後になかなかじっくりと振り返るだけの余裕がないが、身近にギタリストの池田慎司

さんが居てくれるため、時に互いの近況をゆっくり語り合える時間が持てるのがせめてもの救い

となっている。その時こちらが抱えている悩みなども彼には率直に打ち明ける。

 

 

尊敬する上の世代としてジャズギタリストの田口悌治さんやフォルクロリスタの木下尊惇さん

らの存在がある。そして(言い方は悪いが)戦友として、共に刺激を分け合いながら歩んできた

同世代の仲間としてクラシックギタリストの岩崎慎一さん、鈴木大介さん、池田慎司さん、

ジャズギタリストの柳武史雄さんらが居る。

それからここ近年、爆発させるためのエネルギーを着実に蓄え続けている若い世代として身近に

居るのが、クラシックギタリストの縦石佳久さん、加藤優太さん、壇遼さん、松本富有樹さん、

リューティストの太田耕平さん、、、

これらのひとたちに囲まれ音楽活動出来ている自分をとても幸せだな、と思う。

 

 

そして先日オカリナ奏者の和田名保子さんを通じて、ひとりのすばらしいギタリストと知り

合った。

博多在住のソロアコギパフォーマー逆瀬川(さかせがわ)剛史さん。

ギター専門誌の特集で、オリジナリティあふれる楽曲を評価され

「次世代を担うギタリスト15名」

に選出されてもいる。

和田さんのオカリナ教室発表会に今年9月ゲストとして出演し、和田さんのオリジナル曲を

独自の素晴らしいアレンジで伴奏した他、ギターソロのオリジナル曲で会場を魅了した。

その日そのまま「おつかれさまでした」と、さよならするのが惜しかったので、ろくに飲めない

くせに他日一緒に飲みに行く約束を取り付けることに成功。

そして昨夜五時間近く(私は梅酒のロック片手に)互いの話に耳を傾けた。

 

 

彼はとにかく博識で、ものごとに対する洞察がするどかった。ギターの話、音楽の話、宗教の

話、哲学の話(彼は大学でイン哲専攻)、、、五時間のあいだ私が教わったことの方が圧倒的に

多かった。

お互いのライヴに足を運ぶ約束をしてこの日は別れた。

「客席に同業者がいるとやりにくいっすよね~」と言い合いながら、、、。

 

 

新たな刺激を受けることのできる仲間が増えると、それだけで気持ちが若返るものだなあ。

和田さんに感謝!!

 

2019.10.7.

 

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『ギターは今日も鳴り響く』終了

 

うちの企画イヴェント『ギターは今日も鳴り響く』が、昨日無事終了した。

会場にお越しいただいた皆様、集客を手伝ってくださった皆様、池田先生、西島先生、本当に

ありがとうございました。

 

 

規模としては小さいが、一年前から準備を始めて大切に進めてきた企画だった。

ここ何年かのあいだに知り合い、活動も共にさせていただいた畑違いの5人のギタリストに

パフォーマンスを依頼し、皆様快く引き受けてくださった。

クラシックギター、アコギ・ソロギター、フォルクローレギター、ジャズギター、、、

それぞれの音楽に基づいた語法や表現の違いは厳然として存在する。

「音楽に国境はない」「音楽は自由だ」

時折耳にする言葉だが、どの文脈で使うかによって場合によってはその通りだし、場合に

よってはうそっぱちだ。

 

 

お互いの違いを認め合い、受け入れ、敬意を持つ、、、

ギターという楽器を通じ、さまざまな”音楽の愛し方”を目の当たりにする、、、

お客様にそれを感じてもらうために、私が信頼する5人のギタリストにそれぞれの専門分野を

ガッツリとやってもらい、違いを浮き彫りにする中でなにかが生まれるだろうという予感は

あった。

 

 

本番の感触、、、こればかりは予測がつかない。

出演者のパフォーマンスの質だけで決まるわけではない

当日の客席の感触と舞台に居る人間の”気”がどういった対流を起こすか、、、は終わってみない

とわからない。

今回はこうなった。

出演してくれた5人のギタリストの素晴らしいパフォーマンスとあたたかい客席を作って

くださった皆様に心から感謝している。

 

 

あとはしばらくのあいだ思考を停止させて、このイヴェントが残したものを感じたい。

次に進むために、、、

 

2019.9.29.

 

 

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アレンジのアレンジはリアレンジ

 

私の母は、学生の頃から現在に至るまでマリンバを弾いている。

 

 

母が人生の長い期間に渡り、向き合っていることのひとつとしてマリンバがあり、プロには

ならなかったものの”マリンバをすること”が、母の日々の生活に自然に溶け込んでいるのを傍で

見るにつけ、それを単なる”趣味”、”道楽”、”アマチュア”などという安易な言葉で片付けられ

ないことを、私は子どもの頃から理屈ではなく肌で感じていた。

母がもし音楽のプロとして活動していたら、私はおそらく同じ業界にプロとして活動して

いなかっただろうという思いは、何故かずっと私の中にある。

仕事ではなく、純粋に音楽を楽しむ姿を母が見せ続けてくれたからこそ、現在の私がここに

居るのは間違いなかろう。

 

 

まあ、いずれにせよ家の中にあんな馬鹿デカいものがあり、四六時中ポンポンと音を発している

環境が当たり前だったというのは、今振り返るとちょっとおかしい。しかも母の場合、得意

レパートリーが「太陽にほえろ」など、子供の目から見ても明らかに変だった。

”町内の安倍圭子”を夢みている割には、無調音楽などとは全く無縁の世界だった、、、。

 

 

しかし『ロングトーンが苦手』というのは、現在の75歳以上の世代が抱える共通問題として

あり、当時の音楽教育が今に残している克服課題のひとつであろう。

要は《白玉音符をのばしている時》など、”その間どのようにお過ごしか?”という話なのだが、

考え得る症例を挙げると、、、

 

*拍子をとることなく、次に入るタイミングをただひたすら勘に頼っている

*拍子は(本人的には)とっているが、その区間、それまでの演奏と全然関連性の無い

テンポでとっている

*拍子は(本人的には)とっているが、拍のオモテだけ感じながらとっている為、

走り気味になる

*共演者のテンポと自分のテンポをすり合わせる発想がない

 

ざっとこんなところだろうか、、、。

 

 

プロでない高齢者と共演する場合、例えば8分音符や16分音符を弾きっぱなしみたいなところは

むしろアンサンブル上は安全で、危険なのはロングトーン(もしくは長い休止)の次に

「相方がいつお出になるか」。

これに対応できるかどうかが共演者にとって最もスリリングな問題であり、”黒ひげ危機一髪”

をやっているのと同様の緊張に見舞われる。

こちらも”心臓に負担をかけながら”やることになる。

ということは文字通り”命削って”演奏しているということか、、、。

 

 

(息子のホームページなど関心もないので、安心して書いているが)うちの母も例外ではない。

去る今年の6月24日、実家の練習室にご近所の友人を集め、マリンバ&ギターによるジャイアン

さながらのサロンコンサートを開いたが、その日の為に母が選んだ曲の中に有名ラテン・

ナンバー「コーヒー・ルンバ」が入っていた。

そう、あの曲をご存知の方は想像できるであろう。メロディーが小刻みに休憩するたび何が

起こりうるのか。

共演者によっては次のフレーズがアウフタクトでいつ飛び出して来るかわからないあの恐怖感は

まさに”黒ひげ、、、。

 

 

母の為に一応フォローしておくと、彼女が指定したそのアレンジ出版楽譜は、オリジナルの

メロディーにさらにフェイクが加えてあり、とてもモダンでおしゃれに作り込んであった。

言い方を変えると非常にリズムが複雑にされ、難易度が高かったのだ。

だがそれが活きるのもアンサンブルの鉄則である《演奏者個々にリズムキープできる能力》

あっての話。

ほとんど親子喧嘩状態でお互い血圧を上げながらも、妥協案として本来メロディーが休みの

ところで音を弾き続けてもらうよう、その場でマリンバ譜をアレンジした。

「あんた、、、だってそげんなことしてよかとね?」

「いいくさ、、、だってそもそもがアレンジやん!リズム通り弾けんことにはしょうがない」

 

 

母にはこれがショックだったらしい。

”プライドが傷ついた”ということではない。

”楽譜を自分が弾き易いように変える”という発想についてである。

「バッハやベートーベンが書いた楽譜じゃないからいいの!」

私は半ば強引に押し切り、アンサンブル上の問題は8割解決した。

 

 

「アレンジ譜を弾けない」

「でもどうしてもその曲を弾きたい!」

そんな時は”アレンジ譜をアレンジする”という選択肢がある。

ご自分のギターの先生に相談してみてはいかがだろうか?

ただし先生によっては”別料金(気持ちばかりの差し入れ)を払う覚悟”は礼儀として必要

かも、、、(?)

 

 

 

2019.9.14.

 

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ギター界(若い人たちへ)

 

おじさんは時々こんなことを考える、、、。

 

ほんとうに

存在するのか

”ギター界”(五・七・五)

 

 

時折耳にする言葉【クラシックギター界】。

それは”クラシックギター産業”がターゲットとする人たちを便宜上まとめるための呼称であり、

演奏したりレッスンしたりするプロ・ギタリストが実体のないそこに同調というか、疑いを

持たないのは何故だろう。

 

 

プロ・ギタリストにとって大切なのは、その時目の前にいるお客さんであり生徒さん。

それこそが実体として信頼できる唯一のものであり、向き合うべきものである。

(”クラシックギター産業”に積極的に参入したいなら別だが)音楽家としては《ギター界》を

相手にしてはいけない。

 

 

もちろんギターを愛好する人の個々のネットワークや個人的交友は、現実に幾層にも渡って

交錯している。

ただそれら複雑な現実を《ギター界》という言葉で単純にひとくくりにした途端、それは突如

実感を伴わないフワフワしたものと化す。

 

 

あるプロの活動が、ギターを愛好するひとのために”結果として”結びつくことはあるとしても、

それは決して《ギター界》の為に動いたということではない。

なぜならそれは実体のないオバケだからである。

 

2019.9.3.

 

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