ギターのお稽古

 

「稽」は「考える」という意味で、漢語「稽古」の原義は

『古(いにしえ)を考える』『昔のことを調べ、今なすべきことは何かを正しく知る』

であるらしい、、、

 

 

20代の頃は、練習の合間に仲間うちで巨匠の弾き方を真似て遊んだりしたものだ

セゴヴィア、ブリーム、福田進一、、、

指先の動きというよりは”身振り”であり、”弾き姿”である

模写のようなもの

 

 

かつて木下尊惇氏がおしえてくれたことがある

ユパンキの演奏ニュアンスを理解しがたい時

どういう”動き”で彼が弾いてるかをイメージ出来れば

すべてがつながる、と、、、

 

 

完全には真似出来ないが

身振りを真似ると指がついてくることがあるのに気がついた

末端を見つめて得るのは”閉じた技術”

閉じたままの技術では音楽できない

いったん閉じた後でも

そこから意識が外側にむかってどう開かれるか、、、

 

 

巨匠はあがめるものではなく真似るもの

そう、完全には真似できない

できないが

ちがうものとして成立させることはできる

その方がユニーク

できないことが自分の中でコンプレックスになるぎりぎり前に

そちらに転換できるか

 

 

「これが自分」というふうに

はじめから個性の追求はできない

個性に対立するものがないから

 

 

「学ぶ(まねぶ)」と「真似ぶ(まねぶ)」は語源が同じ

閉じた技術は自分の中で懐疑的に入れ替わるが

佇まいから得たものは

真に似て

自分の中に残りつづける

 

 

2020.1.18.

 

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いちミュージシャンの年始御挨拶

 

音楽の本質は”和を以て貴しとなす”

マイルス・デイヴィスは自叙伝でこう言い残した
「音楽は絶対に競争じゃない。協調だ。」

自分と楽曲の協調、自分と楽器の協調、演奏する人と聴く人との協調、、、
過去の自分とも競争はしない
自分の過去と協調しながらやっていく
コンクールも決して他者との競争ではない

世にあまたある楽器のなかで
独奏コンクールが存在する楽器のほうが少ないという事実に目を向けてみればわかる
”コンクールの結果”というものは、音楽の本質から遠いところにあるのだ

特に音楽を仕事にしているひとは
協調の精神ひいては平和について世の中に投げかけるのが仕事だ
本人が自覚していようがしていまいがそれが役割だ
(必ずしも具体的なメッセージというわけではなく、もちろん音を通じてだが)
自分の根っこをそこに持ってないと
音楽を生業にしている意味が無いのではないか

国家権力どうしの争い、大中小企業どうしの競争、専門家や研究者間での競争、、、
そういったものにからめとられぬよう一定の距離を置きながら
今年も音楽を通じて自分の技術や感覚、感性、、、
そしてヒューマニティーを育ててゆきたい

音楽は自分と異なる価値観を受け入れるためのエチュードと成りうるのだ

2020.1.7.

 

カテゴリー: エッセイ, 生活の中の音楽 音楽の中の生活 | 4件のコメント

『緑の木陰にて』(その2)

 

CMのコーナーです。

 

年明けの1月10日(金)福岡市中央区電気ビルみらいホールにて開催の

《New Year Music Festival in MIRAI Hall vol.1》

というイヴェントに出演させて頂きます。

これはジャズシンガー桜井ゆみさんのプロデュースで、福岡と東京でご活躍のミュージシャン

によりステージ構成された音楽フェスティバルです。ジャズギターの名手、田口悌治氏を筆頭に

素晴らしいジャズミュージシャンが多数ご出演のなか、他ジャンルからの異分子要素のひとつと

してこの度お声掛け&投入されたアウェイ松下、、、。

クラシックギタリストに囲まれてるよりリラックスして演奏に臨めるのは何故だ?。とりあえず

異物感ごりごりでいきたいと思います(なんだそれ)。

 

いろんな組み合わせでステージに立たせて頂きますが、《全員演奏》以外でドラムとの共演が

無い為(余談だがドラマーの上村さん、素晴らしい!)どちらかというとノリノリ曲よりも

バラード担当の松下、、、。今回のキャッチコピーは

”盛り上がらない曲は俺に任せろ!”

よし、これでいこう。

ホール内の客席はフラット状態でテーブルと椅子が並び、なんとホール後方ではアルコールと

おつまみ料理を販売。ホール内で飲食しながら聴けるのだ!

つまり400席のホールがライブハウス状態なのです。

2020年1月10日(金)電気ビルみらいホールにて開場17:30/開演18:30

チケットお問い合わせは【唐人町ギター教室092-733-6240】松下までどうぞ。

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早速の第二回目である。こういうのは(料理と同じで)間をあけすぎると冷めてしまうから。

 

『緑の木陰にて』だが、曲の内容と関係なく、私にはずっと気になっていることがある。

carl-henze[1]

作曲したヘンツェはドイツ人。大正時代にマンドリン合奏の指揮者として来日した経歴もある

とか。なのになぜ曲のタイトルは英語なのだろう?そういえばある教本には作曲者が

Vahdah Olcott-Bickford (1885~1980)と表記されているものもあった。

vob_young_pic[1]

もちろんどちらかが誤りであろうが、アメリカギター協会を立ち上げ、クラシックギターの普及

に尽力した女性ギタリスト、ビックフォードとの間に交流などがあり、その為そのような間違い

が起こったのか?(あくまで推測の域)

ちなみに推測ついでだが G.C.リンゼイの『雨だれ』というジャンル違いの曲をクラシック

ギター曲集に最初に編入したのは、おそらくこのビックフォードだと私は踏んでいる。

 

ヘンツェの他の作品を調べてみると、ドイツ語タイトルのものもあれば、英語タイトルのものも

ある。やはりこれは英語でタイトルをつけるだけの人間関係や家庭の事情がヘンツェ本人には

あったということだろう。あとは研究家の論文待ち、、、

ちなみにヘンツェについて詳しいデータをあげてある方がいらっしゃるので、ご興味ある方は

ぜひこちらをどうぞ(こういった資料はありがたいな~)

 

 

それでは場面Bを見てみよう。ここでは《ミーーファソ》《ファソラシー》というふうに

”上がる音階”がのっけから出てくる。場面Aとのコントラストである。この”コントラスト”と

いう手法が、ヨーロッパ文化である西洋音楽において重要な要素であるから意識した方がよい。

同じ”上がる音階”でも、この《ミーーファソ》と《ファソラシー》を同じテンションで弾いたら

あかんがな(これは主観的意見)。声楽家になったつもりで声に出して歌ったらわかるはず。

ここでは歌唱力が問題ではなく、呼吸とテンション感を知ることが目的なので、へたに

歌っても全然かまわない。《ミーーファソ》よりも《ファソラシー》の方がよりのびやかに

広々と歌いたくならない?

二段構えでBの二小節目に”しっかりと”飛び込む理由は、二小節目の伴奏が(二分音符単位の

ベースが四分音符単位で連打になるなど)一小節目よりもリズミックに躍動しているからで

ある。この一拍単位のミのベース連打(ビート感)のエネルギーで、三小節目のB7(ドミ

ナント)に私だったら飛び込みたい。

 

 

場面Bも二小節ずつの起承転結に分ける事が出来るが、ここで問題となるのは二小節目アタマ

二分音符《シ》の後だ。メロディーは3拍目《ソ》に着地して終わるのか(つまり二小節目

最後の《ラ》を次へのアウフタクトとして感じるのか)、それとも《ソーーラ》という付点

リズムのメロディーとして歌う(演奏する)のか、、、

それによって演奏の感触がずいぶんかわってくる。両方試してみてね。

 

 

三小節目”承”は”起”に対し、返事をするかのように”下がる音階”が登場する。

問い(起)と応え(承)は、作曲者の指示がない状態では、問いのほうが力を残して終わり

応えの方が穏やかな心の状態で終わるだろう。

”転”は《ソ》の連打が目を引く。ご自分がフルート奏者だったらどういったニュアンスで吹くか

想像してみよう。ちなみに私の場合、一拍目ウラから三拍目オモテに向かってエネルギーを

移動させながら弾くと思う。スタッカートかポルタートかはその日の気分で変えてみるかも

しれない。もしも”転(Bの5小節目)”一拍目オモテが、付点四分だったらニュアンスはどう

変わるだろう?つまり《ソソソソ》でなく《ソーーソ》だったら?

弾き比べてあそんでみよう。

 

 

”結”はやはり下がる音階の動きで返事をして締めくくる。

《ファーーミレ》《ラソファミ》と終わったメロディーをなぞるように内声で《ラソファソ》と

しずかにゆったりとエコー(こだま)がかかる。これなんで同じ《ラソファミ》にしなかった

のかな?やっぱり《ソ》の#というハッピーな響きのなかで終わりたくなったんじゃないかな?

そのほうが”浮遊感”をもって終わる感じがする(ミで終わると話が完全に完結する感じ)。

これも両方弾き比べてみよう。

 

 

以上で全体を大雑把に網羅したが、最後にもっと細かくこだわりたいそこのアナタに二点だけ

追加で遺言を残しておく。

前回言及した場面A ”起”のメロディーについて。

《ソーファミ》《ソーファミ》と二回繰り返し

二小節目アタマの《ソ》に飛び込むのだが、トニックであるEmの第三音《ソ》の高さを

保った状態のからだを維持したまま二小節目に飛び込むのを試してみて戴きたい。

つまり《ソ》の持つテンション感をその高さにとどめたまま、ミにはからだが下りないように

イメージして二小節目《ソ》に飛び込み、つづく《ファ》にリリースする。

でないと《えんやこら》《えんやこら》《え~~んやこ~ら~》みたいなノリになるでしょ。

《ソ》に内在するエネルギーをキープし続けることで、結果マルセル・モイーズのような太い線

で旋律を描くことが可能になる。私とギタリストの池田慎司さんで会話すると、こういった

内容がよく話題になる。機会があったら彼の意見も是非聴いてみるといい。たぶん五時間くらい

話してくれる(笑)。

 

 

あ、それからもうひとつ(刑事コロンボのマネ)、アーティキュレーションに関する話。

たとえば場面Bの三小節目《ファーーミレ》《ラソファソ》というメロディーは、単語の

区切り目が《レ》と《ラ》の間にある。仮にこの曲がバロックや古典の時代に書かれたもので

あれば、この二音間は切ることになるが、この単語の区切りをリエゾンのように滑らかに

つなげるのがいわゆるロマン派スタイルというやつなのである。セゴヴィアなんか文節の

区切り目を敢えて”スラー”や”ポルタメント”で接着するでしょ?あれがロマン派の手法なの

ですよ。

ヘンツェの作風を他の作品も併せて見ていると、ロマンティックなスタイルが大半なので

『緑の木陰にて』も”ロマン派作品”としてアプローチして問題ないと考える。

この曲の表現の基本としては、やはり ”espressivo” を念頭に置くことね。

under the green wood tree』松下流アナリーゼ

 

(おわり)

 

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『緑の木陰にて』(その1)

 

ブログ内の新カテゴリーを始めたいと思います。

その名も【松下流アナリーゼ】。

壇一雄のレシピ本『壇流クッキング』みたいでしょ。あのくらいアバウト(失礼)でいきます。

 

 

世のなか”正解”や”間違い”などは、時の経過や立場によって変わるので、そんなものは

”無い”に等しいのですが、いっぽうで《事実》というものは確実に存在します。

たとえば「爆撃によりこの村の住人が15名死亡した」というのはいわゆる動かせない事実として

存在しますが、それが「誰が正しく誰が間違っていたのか」という議論はそれぞれの立ち位置に

よって見解が変わってしまいます。(ちなみに《自分の意に反して他人から命を奪われる》と

いうことについて、”正しい”などということは決してあり得ない、とわたし個人は考えて

いますが、、、)

 

 

そうなると自分の意見が正しいなどと主張することは、そんなに意味がないことですし、

それについて興味はありません。

ただ、ひとそれぞれの感じ方には立ち入れないとしても、取り敢えず「そこにある”事実”に

目を向けてみませんか?まずは音楽上のことから、、、」というのが本コーナーです。

 

 

いわゆる「私が楽譜を見る時には、こんなことを気にかけながら弾いてます」の例。

もちろん正解なんかではないし、あくまで松下流。

楽譜に込められた事実をただ探ってゆきたいと思います。それでも主観というものは入って

しまいますが、客観的に語ろうとし過ぎるものにはかえって偽善を感じるので、、、。

 

ま、自己弁護はこのくらいでいいか、取り敢えずいってみよー

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いつまで継続するかわからないこのコーナー第一回目は『緑の木陰にて/C.ヘンツェ』。

Under_the_Green_Wood_Tree(楽譜はこちらをクリック)

 

まずは全体を大きく分けることから始める。アタマの8小節を場面Aとしよう。次に続く

シャープ4つ(Eメジャー)の8小節分を場面B、シャープひとつ(Eマイナー)のラスト8小節分

の場面をA’としておく。つまりA-B-A’の三つの場面からできてるので”三部形式”と呼んだり

するが、そんな呼称を覚えたところで実際の演奏面では何の役にも立ってくれない。

あとタイトルを見て「緑の木陰で気持ちよく、くつろいでる自分を想像しながら」弾いてみた

ところで、それもなんの音楽的解決ももたらさない。それが「大事でない」と言っているのでは

なく、そういった文学性やイメージが、独りよがりを超えて演奏面に活かされるためには、

もっとスジの通った捉え方が根っこに必要なのである。

 

 

大切なのは、まず場面Aそのもののキャラクターを知ることにある。

場面Aをフレーズごとに分けると、4つのフレーズで出来ている。つまり2小節単位で起承転結を

成している。

 

 

出だしの2小節分のメロディーを見てみよう。《ソーファミ》この下がる音階が重要なモチーフ

なので気に留めておいて戴きたい。《ソーファミ》《ソーファミ》と同じ動きを二回繰り返して

いるが、なんのためかと言うと次の小節アタマの二分音符《ソー》に重心を置く為、(繰り返す

ことで)エネルギーを蓄積しているのである。二小節目第三拍のファは、《ソー》によって

投げられたボールをキャッチするかのように、ソを上回らない音量で弾く(”キャッチ”でなく

バットで打ち返すように弾く人がたまにいる)。

伴奏の休符はやってみても面白いかもしれないが、難しいひとはひとまず放っておいてよい。

 

 

起承転結の”承”(3~4小節)も基本的には”起”と同じ。《ファーミレ》《ファーミレ》と、

やはり下がる動きを踏襲しているが、コードはB7(ドミナント)からEm(トニック)へと

動いているから、そこの和声進行感は表現したい。もっともこの曲がポップスである場合は、

その”和声進行感”というやつは打ち出す必要はない。だがクラシック音楽として演奏したいの

なら、この感覚がクラシックをクラシック足らしめるのに非常に重要な要素だと言ってよい。

 

 

4コマ漫画の3コマ目にあたる”転”(5~6小節)は、やはり事件が起きる。”起”と”承”で確立

された、ある特定の動きが破られることで一気に緊張感が増す。《ソーファミ》を期待する耳を

裏切って、《ソーファソラー》と上昇するのだ。しかもラが伸びているバックで伴奏がブレイク

する。

その後の四拍目の四分休符(この休符は大切!)の上で、メロディーはソロ状態で上昇を

続けるが、不均等な付点リズムだ。もしこれがふつうの八分音符ふたつだったら、ニュアンスは

どう違うだろう?

あるいはこの付点リズムを

”元気にリズミカルに”弾くか、、、

”静かにやわらかく”弾くか、、、

自分で弾き比べてみよう。

 

 

最後の”結”(7~8小節)は、場面Aの重要なモチーフである”下がる音階”を象徴的に使って

締めくくっている。《ソファミレ#》の繰り返しだが、二分音符のベースが

”もしどちらもラだったら、、、”

あるいは

”もしどちらもシだったら、、、”

試しに弾いた後で、楽譜の通り《ラーシー》のベースで弾いてみて欲しい。

なにが言いたいかと言うと、同じ《ソファミレ#》というメロディーも、ベース音が変われば

当然ニュアンスが変わるということ。特にベースの真上にあるソの表情はもろに影響を受ける。

そうでなければクラシック音楽の演奏ではない。

 

 

それを”どの程度やるか”は、そのひとの個性かもしれないが、作曲家の意図に敬意をはらいたい

人は、個性の表出など脇に置いて冒頭のことばに耳を傾けるべきだ。

Andante espressivo

すなわちエスプレッソばりの”濃い味”で音のエキスを絞り出せ!と言っている。

これはこの曲の演奏に対する私の好みを言っているのではなく、冒頭にお断りした《事実》を

述べているだけである。

この事実を無視して「私、薄味が好みだから」というひとがいてももちろん構わないのだが、

その時には単なる好みを超えた”スジの通ったなにか”を演奏で示すのが、曲に対する礼儀で

あるのは言うまでもない。

 

(つづく)

 

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ジャズに学ぶ

 

”ジャズギター万年初心者”を長年やってきた私だが、最近すこ~~しだけ光が見え始めてきた

ことを実感している。

それは現在、私の周りに素晴らしいジャズメンが居てくれて、私の疑問に対しステキなアド

ヴァイスをくださる環境だということももちろんあるのだが、それと同時に自分の持つ疑問が

わたしのなかで最近、かなり具体的に言葉にできるようになってきたこともある。

つまり”ジャズ演奏のココがわからない””ココができない””ココの能力を上げたい”などが

ハッキリしてきたのだ。質問が具体的だから、答える方も答えやすいのだ。

 

 

《質問》というのはある程度、自分を客観視して整理しないと出来ないものである。

やはり「自分はこうなりたい」「誰々のようにこう弾きたい」などの憧れが先にあって、

そののち質問というものは具体的になってゆくのではないか?

この手順を踏まずに「私はダメだなあ」「なんでできないのかなあ」「なにがわからないのか

わからないが”出来てない”のだけは確かだ」などとばかり思いを巡らせていると、次第に

頭の中は「音楽の才能が無いから、、、」「子どもの頃からやっておけば、、、」「リズム感が

無いから、、、」という(私が一番きらいな)考え方になってゆく。

 

 

ちなみにリズム感は全人類にそなわっている。

と言うか、「リズム感無し」では人間、日常生活が送れるはずがないのである。

ただ”楽器をもって演奏する”という作業段階で、それをやりながら同時進行で”リズムを

感じる”ことが出来るかどうか、、、だと思うのである。つまり【楽器演奏】と【リズム感】が

共存&両立できるか、、、そこを訓練すればいいのである(この文章が意味不明な方は、ご自分

の先生に尋ねるか、唐人町ギター教室に来なさ~い!)。

 

 

実際の演奏はまだまだ拙いが、ジャズから学んだことはすでにたくさんある。

クラシックが時代の流れとともに(ルネサンス~バロック~古典~ロマン派~近代~現代と)

スタイルを変えてきたように、ジャズも1900年代初頭から目まぐるしくスタイルを変えて

きた。ブルースやニューオリンズ~スイング~ビバップ~クールやハードバップ~モードや

フリー~フュージョンなど、、、。

 

 

過去のスタイルが増えるにつれて、みんなが皆、最先端の音楽をやらなくなるのはクラシック

もジャズも同じである。過去のものとなったスタイルのなかで、発見や発展がみられることも

当然あるから、過去のものを一概に”古い”とも言えない。90年代など例にとると、クラシック

の世界では、当時の現代音楽以上に、古楽の世界のほうが”あたらしくクリエイティブ”な動きを

じっさい見せていたようにも思える。

 

 

そういった事実も踏まえ現在の状況を見まわしてみると、クラシックもジャズも最先端のモノ

(感覚)にお客はついていけていない。だがこのことは別に悲観すべきことではない。なぜなら

いつの時代もそうだから。ちなみに念のためお断りしておくが《音楽的に最先端のモノ》と

《流行の最前線で商業的に売れているモノ》は、全然ベツモノであるから混同しないように。

 

 

ここで大切になってくるのは、それぞれのシーンで活動している人達がついていってるかどうか

なのだが、現在進行形の最先端の音楽に対し、現役ミュージシャン達が《ついていっている》

率は、クラシックに比べてジャズの方が圧倒的に高い。

 

 

先日、福岡在住の”あるジャズギタリスト(ほぼ同世代)”に教えを請うた。

レッスンの後半、『酒とバラの日々』のアプローチを尋ねた折、丁寧に細かく教えてくださった

後、「じゃあ、次は僕がライブで実際にやるようなプレイをしてみますね。もし聴いていて

”分からないところ””知りたいところ”があった時は、途中でも遠慮なく止めてください。」

と言って弾き始めた先生。ところがそれは私にとって即座にストップをかけざるを得ない内容の

プレイだった(その間わずか二小節進んだのみ)。

 

松下:「えっ?なんすか、今の!」

先生:「ああ、これは代理VI度マイナーのメジャー7th、つまりI度メジャーのオーギュメントに

なるんですけど、最近ではNYのカート・ローゼンウィンケルあたりがよく使うヤツですね。」

 

それは私のなかの固定観念がガラガラと崩れるサウンドだった(アウトサイドというよりは

コードトーンの感覚で使ってたところがミソ)。

 

 

楽器店でレッスンの合い間に、ジャズ教則本やインタビューを立ち読みするのが趣味(買う

ときゃちゃんと買いますよ!)であるが、近年その種類の多さには目を見張らせられる。

これだけいろいろ出てるということはそれだけの需要があるんだなあ、、、と感心すると同時に

そこには最先端の活動をする人たちと、それに興味を持ってついていってる愛好家やプロの間で

ある種の”対流”が起こっているのを感じるのである。

 

 

ソルやタレガ、バードやトレーンから学ぶことは勿論大切ではあるが、それらを学ぶのは

ひょっとしたらミュージシャン各人が、次に来たるべき新しい感覚に備える為なのではなかろう

か、、、という思いがふと頭をよぎったりする。

 

 

クラシックギターとジャズギター両方の現在の最先端を熟知してある尾尻雅弘、鈴木大介両氏

には、その辺りがどう映っているのか、、、個人的にインタヴューしてみたい気になった。

 

2019.12.1.

 

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