ギターの効果的な習得法

 

本日はオフ日、、、というわけで今日もカレー作りにはげむ私。

チキンカレーは安定のおいしさになってきたので、今日は初のビーフカレーに挑戦中。

やはりこのワクワク感は初心者ならではのもの、、、いいもんですな。

ドラムンベースや70年代プログレをガンガン鳴らしながら玉ねぎを炒めていて、ふと来年の

企画が思いついた。これはちょっとすごいな、、、実現したら面白そう!

やはりクリエイティブなことをやっている最中は、他のクリエイティブにつながりやすい

などとブツブツ言いながらも、カレーはいよいよラスト60分の煮込みタイムに入った、、

 

 

身内話であるが、兵庫にいる甥っ子は現在高校三年生。将来はDJを目指して勉強中である。

じつは私、甥っ子がそういう話になるまで

”DJ”と呼ばれる人達がいったいなにをやっているのか、、、

ということにまるで無頓着であった。

ただ、わからないなりに、こうは考えていた。

「通常、音楽をやる人は、歌にしろ楽器にしろ”技術習得”の為に膨大な時間を費やす。」

「そこを生業としている自分ではあるが、一方で技術習得に年数をかけ過ぎずひとびとが音楽を

楽しむ手段が世にあることは、それ自体はすばらしいのではないか?」

ところが先月その甥っ子が、うちの教室に余ってころがっているエレキギターのうちの一本を

”ほしい”と言ってとりに来たのである。

DJが何故に演奏技術の習得???

そんなおじの疑問に甥は丁寧に答えてくれたが、かいつまんで言うと「作曲の勉強にコードが

演奏できる楽器が必要」とのことだった。なるほど、、、

 

 

そこまではよかったが、、、

「まずはじめにどういうことを練習すればいいですか?りゅうじおじさん」

この質問は至極真っ当なのだが、私は妙に面食らった。だけでなく、なんでこの問いに自分が

そこまで面食らうのか、その理由がまるで思い当たらないのである。

 

 

クラシックギターの場合だったら「そうですねー、取り敢えずドレミからいってみましょか」

となるのが、エレキだと、どうしてもその言葉がノドをつっかえる。なぜなら「俺はそんな

やり方でエレキは練習しなかったぞ、、、」ということなのである。

自分の場合、中3でエレキ初めて持つ前にクラシックやフォークをすでに弾いてたし、いきなり

やりたい曲(当時はアラームやブライアン・アダムス等のコピー)からやって、その中で

いろいろと覚えていったのである。

でもなんだかそれだけではない気もするなぁ、、、

 

 

ふと尋ねてみた。

「周りでギターを弾いてるともだち居る?」

すると音楽仲間のひとりが最近ギターを購入した、とのこと。

そうそう、これだよ!これを忘れていたんだ。

「”ギター”って楽器は、ともだちと”あーでもないこーでもない”と言いながら習得していく楽器

なんだよ」

おじさんはようやっと確信をもって答えることが出来た。

 

 

そう、これは不思議とギターという楽器が、本来もち合わせている特性(キャラクター)の

ひとつなのである。

たとえばピアノを長く弾いている知人(プロアマ関係ない)が周囲にいたら、こんな質問を

投げかけてみるとよい。「ピアノを泣きながら練習したことありますか?」

すると意外に多くの人がその経験を持っている。

つまりはこれも楽器のキャラクターすなわち《ピアノという楽器が本来持ち合わせている特性の

ひとつ》と言える。要因は分析すればきっといろいろあるのだろうが、あの”大きな楽器と

向かい合う演奏スタイル”が大きく作用している気がする。

 

 

私はレッスン中、生徒を泣かしてしまったことはこれまで全く無いこともない(あるんかい!)

が、鼻水や無意識のよだれを側面板に垂らしたことはあっても、涙を垂らしながら練習した

経験は皆無である。抱きかかえるサイズの楽器”ギター”の場合は、ピアノほどそういう心理状態

にはならないんじゃないかな。管楽器もあまりそういうイメージではない。泣きながらじゃ

たぶん吹けないだろうし、、、

 

 

で、ギターに話を戻す。

クラシックにしろフォークにしろエレキにしろ、ギター片手に友人と向かい合って

「あの曲のココの運指、どうしてる?」「セゴビアってこう弾くよねー」「なんか最近トレモロ

が調子いい感じ」「へえ~どれどれ?」「1980年チューリッヒのライヴでジミー・ペイジが

こう弾いてた」「この曲はジム・ホールチェンジってのがあってですね」「弦はいまどこの

メーカー張ってるの?」

 

 

(下世話なものから有意義なものまで含む)こういった雑談の数々に、どれだけ育ててもらった

ことだろう、、、と今にして思う。

先日開催したレオナルドと池田氏と3人でやったコンサートを終えた数日後、会場に足を運んで

くれたオカリナ、ケーナ奏者の和田名保子さんが「三人で切磋琢磨されてる感じが伝わって

きました」というコメントをくださった。管楽器奏者の和田さんから見ると、やはりそれは

ギターという楽器の特性として映るのだろう。

 

 

ギター片手に対話しましょう、みなさん。

言葉で、そしてプレイで。

そこで得るものは、《レッスンで先生から受けるアドバイス》ともちがう、《部屋にひとり

こもって特訓することで得るもの》ともちがう、またべつな”なにか”であると、確信持って

おじさんは言うことができる。

 

 

2020.9.29.

 

 

カテゴリー: エッセイ, 明日のギター演奏の為に | コメントをどうぞ

レオナルド・ブラーボと仲間たち

 

去る9月19日(土)唐人町ギター教室の主催イヴェント『レオナルド・ブラーボと仲間たち

~ギターで描くラテン・アメリカの世界~』を無事終了することが出来た。

コロナ感染の危機が去らない状況の中、ご来場くださった多くのお客様に心から感謝したい。

 

 

コンサートの準備には通常4カ月から半年ほどの期間を要するが、今回はコロナ感染報道

真っ只中からの準備スタートとなった。使用会場が公共施設ということもあり、大変数多くの

項目からなる誓約書にサインをした。非接触型体温計、消毒液、マスクなどの準備は主催者に

義務化されている。入場者リストの管理、客席スペースの確保はもちろんお客どうしの会話の

禁止、、、全てが主催者の責任である。それらの責任を突きつけられたそのうえで、今回出演者

でもある主催者は、笑ってその場に立ち続ける必要があった。

 

 

ブラーボ氏の演奏の素晴らしさについてはここであらためて紹介するまでもないが、今回の

企画は、彼と長年デュオチームを組んで活動している池田慎司氏の存在が無ければ、とても実現

できなかった。

コンサートはレオナルドの繊細さと力強さが共存するみごとなソロ演奏で幕をあけた。

3曲のソロに続き、池田氏との成熟したギターデュオによるアルゼンチン音楽の美しく豊かな

世界が、ソロとは別の扉をひらいた。時間をかけて熟成されたお二人のギターデュオは、もはや

ひとつの究極の形を成していると言ってもよい。

 

 

休憩の後レオナルドとわたしのデュオ。池田氏とのすばらしいデュオの後なので、少しだけ

ちがう傾向のラテン音楽を打ち出してみた。

そしてプログラム最後のギタートリオは、今回レオナルドを主軸にしていることで圧巻の演奏を

ステージ上で体験することが出来た。池田氏のキレ味もレオナルドと居ることで、いつも以上に

際立っていた。

”自画自賛””手前味噌”と言われても構わない。

今回ばかりはステージで我々が感じているたのしみ”そのまま”が、客席に伝わったと確信して

いる。

アンコールはレオナルドがソロでしっかりと閉じてくれた。

 

 

コンサート開演前、お客様にとって久しぶりのコンサート会場、ということもあってか、皆様

楽しそうに再会を喜んだり、マスク着用で会話をされていた。

本来だったら主催者のわたしには、それらに注意を促し、止める義務が会場により課せられて

いた。

だがその様子をじっと見ているうち、皆さんがコンサートに求めているものは決して

「黙って開演を待ち、演奏を聴いたら、無言でハイさようなら」

などということではない、すなわちコンサートとは、音楽を聴くためだけにその場にいるのでは

ないのだ、この状況もたいせつなたいせつな”コンサートの一部”なんだ、、、とあらためて

確信した。

これを否定、排除してまでコンサートを開催する意味がどこにあるのだろうか?

 

 

誓約条項を徹底できなかったわたしは主催者としては失格かもしれない。

だが開演前の会場のその様子を見ていて、むしろ

「これだよ、これがコンサートだよ!」

という気持ちが溢れてくるのを、私には抑えることができなかったのである。

 

 

image0

カテゴリー: 活動報告 | 5件のコメント

もはや散らし書き

 

たまにはこんなのもいいのかな。

2020年の9月9日は一生に一度しかない(あたりまえだが)。

今日という日に頭をよぎったいくつかのことを思いつくまま、ただ書き留めてみたい。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

今現時点において私の頭の多くを占めているのは、今月19日(日)に主催予定のコンサート

『レオナルド・ブラーボと仲間たち』 ~ ギターで描くラテン・アメリカの世界

のことである。

コロナ下におけるイヴェントのため、これまでになく主催には気を遣う。

会場も公共施設の為、使用に関する提出書類の類いも、いつになく多い。

 

 

共演者としては無論とっても楽しみである。レオナルドさんとはこれまで単発の共演はいくつか

あるものの、今回は割とガッツリ共演である。

彼と初めて出会った頃は、《こちらが足を運ばずしてアルゼンチンが向こうから来てくれた》

という印象だった。

そして彼が福岡から東京に移り住んだあとも、毎年共演の機会を作り続けている池田慎司さん。

非常に息の合った完成度の高いおふたりのデュオ演奏だが、今回のコンサートはレオナルドの

ソロに始まり、レオナルド&慎司の熟成デュオ、そしてレオナルド&わたしの新たな世界、

〆はレオ&シンディ&ルイジによる、この日限定のラテンギタートリオ。

さまざまな形態のギターアンサンブルを通じて、レオナルドの魅力、ラテン音楽の魅力そして

ギターの魅力をご堪能いただけたら主催者として本望である。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

”ルイジ”と言えば、わたしのことをそう呼んでくださっていたフランスの師匠、アルベルト・

ポンセ先生が昨年7月にお亡くなりになっていた(享年84歳)。

ご高齢が故に気にはなっていて、折に触れて検索をかけていたが、ウィキペディアに没年月日が

掲載されたのはおそらく最近のことではなかろうか。

日本における”A.ポンセの弟子”は非常に数が多く、第一線でご活躍の方にはすぐに訃報がいった

事と思うが、先生はおろかギター関係者とすら接点がないわたしにはネットの情報で知るしか

すべが無い。留学期間中は不肖の弟子であったが、ポンセ先生に対する敬意と愛情は、帰国後

時が経つにつれ不思議とわたしの中で膨らみ続け、今現在も自分の中で大切にしている。

「あなたの教えは、わたしのなかで確かに生き続けています。ありがとう、マエストロ。」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

5年ぶりぐらいに”エゴサーチ”してみた。

自意識過剰な行為だし気恥ずかしいので滅多にしないのだが、どこかで誰かに知らず知らず

迷惑かけて、炎上したりしていないかがふと気になり、衝動的に検索かけた小心な私。

すると三年前のある記事が目にとまった。四人のギタリストの対談で、大萩康司さんが昔の

思い出話の中で、わたしの先輩の福山仁さん(熊本在住ギタリスト)、池田慎司さん(漢字変換

ミス有)と共にわたしの名を挙げてくださっていた。他のおふたりはともかくも、わたしの名を

挙げたところで誰も知らないし何のトクも無かろうに、やさしいな、大萩さん、、、。

 

 

記事の内容は、当時亡くなったフランスのギタリスト、ロラン・ディアンス(チュニジア人)を

追悼すると共に、四人のギタリストが”同時代人としてディアンス作品とどう関わってきたか”

を語り合うユニークな対談企画だった(そういえばディアンスもポンセ先生の門下だった。

わたしよりずっとずうっと先輩。福田先生のひと学年上くらいじゃなかったかしら?)。

 

 

生身のディアンスは留学中一度だけ目にした。

フランスから完全帰国する2日前に足を運んだ、アルゼンチン人ギタリスト、ロベルト・

アウセルのリサイタル。

その日の客席は錚々たる顔ぶれだった。同国人のパブロ・マルケス、イタリアの俊英アニエロ・

デジデリオ、そしてわたしの斜め前の席には、あのロラン・ディアンスがライオンのような頭を

ゆらしながら活き活きとした目で隣のひとと会話していた、、、

 

 

わたしがディアンス作品に接するとき感じるものは、強烈とも言える彼特有の”ダンディズム”

である。これはヴィラ-ロボスにも強烈に感じる。”男の美学”気質とでも言ったらいいのか、、

タレガやバリオスの作品には感じないが、セゴヴィアやレオナルドの演奏からは匂ってくる

香水のような”あのなにか”である。

抽象的でゴメン、、、

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

現在わたしはカレ―作りにハマっている。

そう、スパイスから作るあれですよ。

うちの教室はここ最近、休みの日になると”カレー臭”が漂い、もはやギター教室のおもかげは

皆無。そして今日はその休日、、、、

カルダモン、クローブ、シナモンと共に玉ねぎを炒めている時のしあわせな気分といったら、、

 

 

リハーサルの後、レオとシンディをうならせるようなチキンカレーを彼らに出せるよう現在

試行錯誤中。

もはやギター二の次?

いえいえ練習は、、、、してまんがな(汗)、、、

 

 

2020.9.9.

 

カテゴリー: エッセイ, 生活の中の音楽 音楽の中の生活 | 2件のコメント

『Capricho Arabe』の周りで(その4)

 

 

第二イントロの後、こんなかんじですが、、、

 

IMG_page-0001

IMG_page-0002

 

場面Aのメロディー二拍目のラの上のアクセントは、「ここから唄いはじめて、次の小節一拍目

ラまでが”ひと区切り”」という意味合いにとることが出来る。つまりただ強く弾くだけでなく、

三拍目表をこえて裏の”ソ”につながってゆく持続感がポイントである。

なお合奏版において、ここの 2nd. 3rd. 4th. パートは、管弦楽風(あるいはチャピ風)になる

よう、スタッカートによるアーティキュレーションを推奨している。

そして基本インテンポであっても、セレナータ特有の「前に進む感じ」は失いたくない。

 

 

オリジナルであるギターソロ版は、場面Aの7小節目後半からアッチェレランドがかかり、

カデンツァじみた雰囲気を醸し出しているが、合奏においては(チャピのように)テンポのまま

いく為、タレガの指示している4拍目アタマ”レ”のテヌート(ten.)は実現しない。

だがここは前回お話した、”イントロ予告”とのちがいを比較するためのニュアンスとして、

ソロ版ではぜひこだわりたいところ。「イントロで出てきたミじゃなくて、このレが本命だよ」

というのを(強さではなく)長さで示してほしい。

 

IMG (2)_page-0001

 

 

あと「そんなのあたりまえじゃねーか」と言われるかもしれないが、以下のアルペジオの

相似点と相違点を比較して、マイナー感とメジャー感をそれぞれ描き分けよう。

 

IMG (10)_page-0001

 

IMG (2)_page-0001

 

こういったことは一旦練習に取り掛かりはじめると、どんどん考えなく、あるいは感じなく

なってしまうものだ。なぜなら弾いてる最中は「間違えず弾けるか」が最重要事項になり

最大関心事になってしまいやすいからだ。

ギターをちょっと脇に置いて、珈琲片手に《楽譜を眺める時間》がいかに大事なことか

(珈琲じゃなくてもいいですよ)。

”どう弾くかのプランニング”、、、それが定まらないままギターを手にし、やみくもにギターを

鳴らしていると、自分の関心が「間違えたか」「間違えなかったか」ばかりにいくのは、

まあ当然と言えば当然である。

 

 

オリジナル版ではラストの小節に入る直前、フェルマータがかかる。

突如引き延ばされるドミナント和音、、、、、

聴いている人達の大半は、次に”ごく普通のDマイナーコード”を想定するに違いない。

だがそこで響くのはトニックのハーモニクス。

つまりこの曲の冒頭でひびかせたドミナント・ハーモニクスの返事をここですることによって

曲のアタマとおわりを一挙に繋げたのである。

その後しずかに響く、想定よりも一オクターブ高い、最後のDマイナーコード、、、。

今風に言うと、こういった”ネタの回収作業”ができるということが、重要な作曲技術のひとつ

とも言えるのである。しかし、ただなにげなく弾いていると、自分にとってそれが当たり前の

ことになってきてしまう。そうしてリアリティが消え、演奏は死んでゆく、、、。

 

 

私が演奏に際し常に心掛けているのは、曲の中で起こっている(一見当たり前にも思える)

そういった出来事にさしかかる度、「びっくりする」「関心を持つ」「強く感じる」こと。

 

 

映画や小説で、仮に先の筋がわかっていたとしても、その瞬間が来るたびに人間は幾度でも感動

することができる。それは神が人間に与えた恩寵のひとつ、、、、ナディア・ブーランジェが

そんなことを言っていた気がする。

 

 

(おわり)

 

 

2020.8.29.

 

カテゴリー: エッセイ, 明日のギター演奏の為に, 暴論的持論, 松下流アナリーゼ | 2件のコメント

『Capricho Arabe』の周りで(その3)

 

わたしが”アナリーゼ(分析)”と言っても、作曲専門の方々がなさるそれとは全然違ういわゆる

演奏に直結した完全な”松下流”。よって個人的なものであり偏見や出鱈目も多く含まれるもので

あることをはじめにお断りしておく。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

楽譜(出版社)によっては、サブタイトルとして”Serenata”と付けられている。

この一言はわたしにとってひじょーに重要なものだ。

この一言があるだけで曲の情景としては自動的に”夕暮れ時”の時間設定となる。

そしてそれ以上に大切になるのは、”セレナータ(セレナーデ)”そのものの持つキャラクターの

認識だ。

 

 

そもそもセレナータとはなんであろうか?

今どきネットで調べればスイッチひとつで多くの情報が簡単に出てくるから、是非調べてみると

よいが、私の認識をざっくり申し上げると、、、

ヨーロッパの風習のひとつとして、男性が(野外演奏可能な楽器群で構成された)楽師を金で

雇い、夕暮れ時に自分の憧れの女性の家の前で”愛の唄”を演奏させる。部屋の中で聞いていた

女性が歌および演奏に心動かされた場合、その意思表示として窓(もしくはドア)を開ける。

「楽師のみなさん、大儀であった」と、おもむろに物陰から登場した男性は、意中のひとと

コミュニケーションをとる権利をようやく得る、、、、というもの。

 

 

まあ、ヨーロッパに一時期流行した”恋のゲーム”の一種である。

楽団(もしくは歌い手)の演奏が下手であれば、窓は永久に閉ざされたままなのだろうか?

そうなると楽師も必死である。ここで肝心なのは、そっぽを向いている女性を情熱的な音楽の

力でこちらに振り向かせないといけない、、、それがセレナータ音楽の本質なのである。

つまり”リラックス”よりは”情熱のたたみ掛け”が、全体の多くを占めている音楽であり

(”全部”でないところがみそ。やはり押し引きが大事なのね、、、笑)、サティ演奏のような

セレナータは、その性格上あり得ないということ。相手の気持ちをこちら側に引きずり込む為の

音楽だということをわたしは念頭においている。

 

 

冒頭のハーモニクスは夕暮れ時に響きわたる、遠くにある寺院の鐘の響きかなにかだろうか?

このハーモニクスがドミナントであることはのちに意味が出てくる。

3小節目アタマは本来ミではなく、のちに本編で出てくるようにレが置かれるはず。

つまりイントロを使って本編の予告(布石)を行なっているわけだが、そのミを印象付ける

ためにアクセント記号が置かれている。「あとで登場するレと比較してね~」という意味合い

だ。要はそのアクセント”ミ”は異物なのである(つまり緊張の持続を必要とする)。

 

 

9小節目からのカデンツァめいた動きは、合奏版においては文節ごとに各パートに振り分けて

いるため、アンサンブルが難しい。

IMG_page-0001

こういった長いカデンツァ・フレーズにも区切り目というものはあり、バロックや古典作品の

演奏においてはそこを分割するアーティキュレーションをほどこしたりするのだが、ロマン派

時代に入ると、その文節切れ目をあえてニカワでつなぐような表現方法に変化してゆく。

つまり文節で切ることをせず、ポルタメントなどを駆使して文節を”なめらかにやさしく”

接着するのである。タレガやリョベート、バリオス、セゴビアなどによく見られる運指がそれで

ある。この曲のソロヴァージョン(オリジナルのこと)では、是非そういったことにチャレンジ

して欲しい。ちなみに大阪の岩崎慎一さんあたりがその技術のスペシャリスト。

 

 

4/4に変化してからいわゆる第二のイントロが二小節おこなわれる。

池田慎司氏によるとスペインのお祭りなどではブラスバンド(もしくはセレナータ楽団)に

よって、こういったパソ・ドブレ的なリズムが演奏され、みんなで隊列を組んで市中を練り歩く

らしい。ここで先程申し上げた”セレナータ”のキャラクターを思い起こしていただきたい。

ゆったりくつろいで歩くというよりは、2拍目から3拍目へ、そして4拍目から次の1拍目へと

(テンポが走り過ぎないギリギリの前向きさ加減で)前に進んでほしい。

 

 

思ってたより長くなりそうなので、次回で終わらせよっかな、、、、、ごめん

 

(つづく)

 

カテゴリー: エッセイ, 明日のギター演奏の為に, 暴論的持論, 松下流アナリーゼ | 4件のコメント