音符と演奏のはざまで、、、(その2)

 

先に申し上げておくと、今回のテーマについては現時点で私なりの結論や着地点は持ち合わせて

いない。よって読者の皆さんをどこに引っ張ってゆきたいなどは全く考えていない無責任さで

話を進めている。ただ最近よく思うのは、話というものは”辿り着く結論”そのものよりも、

その途中にころがっている一見”どうでもいい話”の方が、よっぽど有益なものに発展する場合が

多い。あなたにとってのそんな話がひとつでもころがせたらなー、、、、。

 

 

ジャンル問わず旋律楽器奏者の多くが、背後に流れるコード(和音)というものを意識しない

まま演奏していたりする。”ちゃんとした旋律楽器奏者”は勿論そんなことは無いが、、。

ひとりでコードを鳴らすのが出来ない楽器の場合は、その意識が多少希薄でもいたしかた

あるまい。だが鍵盤楽器やギターなど”コードが鳴らせる楽器”の場合、自分が弾いている音符が

コードトーンとしてどういったニュアンスや意味を持つものか意識した方が、演奏がぐっといい

感じになる。これはもちろんプロや愛好家など関係なく、である。

 

 

楽譜上の《音符》というものは何故生まれたのであろうか?

おそらく本来、目には見えない”音”というものを視覚的に享受するためであろう。

だがピアニストやギタリストの場合、《視覚》というものを楽譜あるいは音符のために100%

使えない。なぜなら我々(ピアニストやギタリスト)は、鍵盤上や指板上(左手)、あるいは

弦上(右手)にも視覚的能力を要求されるからである!

だってフルートやトランペット奏者の場合、楽器上に展開されてある音の配列を視覚的に捉える

必要なんてないわけでしょ?

加えてギターの場合、ピアノのように音の高い低いがお行儀良く順番に並んでいるわけではなく

しかも”同じ音”が複数の箇所で出るというやっかいさ、、、。

ギターに触れて40年以上経つが、この楽器がなぜ他の楽器よりも「初見演奏が難しいのか?」

ようやくわかってきた(気付くのが遅すぎた!)。

つまり《楽譜を読み取る作業》と《指板上の音配置の確認作業》で”視覚的能力”を消耗する

度合いが他の楽器よりもはるかにデカい。

 

 

それに気が付くと同時に、ギターという楽器においてコードネームで捉える方法が一般的に

普及し、音符で捉えるクラシックギタリストが”マイノリティー的位置”にいるのかがなんとなく

わかる気がするのである。

 

 

(つづく、、、かな?)

 

2019.2.25.

 

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音符と演奏のはざまで、、、(その1)

 

ギター初心者の生徒さんにとって”ギターを使って音楽すること”は大変である。

 

まず『楽器を抱える』

そして『弦を右手指ではじく』

それから『指板上の弦を左手指で押さえる』

そしてここで大きな壁が立ちはだかる。

 

 

『五線譜上の音符の高低と長さを同時に読み取る』

そして読み取ったそれらの情報を『ギターの指板上あるいは弦上に反映させる』

あ、そういえばi,m,交互に動かしなさいって先生が言ってた気がする、、、。

 

 

頭に挙げた三つくらいは皆さんサラサラと出来るようになるから、人間の能力とはつくづく

大したものだが、《音符を読む》という作業については、勿論個人差はあるものの、多くの人が

苦労を強いられることのようである。《ギターの指板を覚えること》も然り。

だが『楽譜を読めること』、もっと具体的に言うと『音符を読めること』は音楽を楽しむ上で

実際のところどのくらい必要だろうか?

 

 

ここで私が言う『音符を読める』というのは、「音符を読み取るとほぼ同時に自分の楽器上に

反映する」能力のこと。

音程やリズム、音量だけでなくその曲の時代様式にふさわしいニュアンスまで実現出来たら、

クラシック教育の目指す”初見能力”としては完璧の部類であろう。

 

 

そういった意味だと、たとえば同じギタリストであっても、路上でフォークギター片手に

歌ってるお兄ちゃんお姉ちゃんの大半は”音符が読めない”。それでも彼らはコード(和音)を

読み、気の利いたストロークやアルペジオで即興的に伴奏出来る。

 

 

我々から見ると魔法であるかのような見事なアドリブをするジャズギタリスト達も、あらかじめ

書いてある音符を弾く段になると、その大半はとたんに汗をかき譜面にしがみつき始める

(彼らはその作業を”タマ読み”と呼び、敬遠する)。

たとえそうであっても彼らは指板上のコード・トーンのニュアンスやスケールをクラシック

ギタリストとは比べものにならないほど熟知し、その時の音楽状況に即興的に対応できる。

フォルクローレ・ギタリストもブラジリアン・ギタリストも同様である。

 

 

つまりクラシックミュージシャン以外のほとんどが”音符”ではなく”コード”に基づいて音楽を

楽しんでいるという事実に目を向けてみよう。何故にコードか?

それは先程申し上げたように、コードで音楽をとらえることで「即興演奏できる自由」を音楽に

確保しているのである。ジャズに至っては即興(アドリブ)がメインと言ってもいい。

そしてクラシック教育が前提としている”音符を瞬時に読み取る能力”というものは、即興演奏に

ほぼ関わりのない能力なのである(が~ん!)。

その事実から目を背け、「楽器演奏の基本はクラシック」という迷信を信じてうたがわない人は

他ジャンルとの異種格闘技の場に立って初めて途方に暮れることになる。

 

(つづく)

 

 

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2019守口

年明け恒例となっている、大阪守口市でのコンサート(大阪ギタースクール主催)とレッスン会

(岩崎慎一主催)で、今年も25日~27日の三日間にわたりお世話になってきた。

 

北九州市在住の名手、池田慎司さんと共に充実の時間を過ごさせていただいた今回であるが、

コンサートの内容としては年明けのブログで予告していたように、以下の内容であった。

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《ギターアンサンブルの楽しみ》

【第一部】

*田園的子守歌~映画『失われた都市』より(A.G.Caturla/J.Ortega編)

*ベンタロン(P.Maffia/L.Bravo編)

*テ・バス・ミロンガ(A.Fleury/L.Bravo編)

*ふたつのギターの為の音楽(C.Fariñas)~以上、池田・松下デュオ

*キタロエディア・ストリゴニエンシス(F.Farkas)

*君の影になりたい(H.Quatromanos/松下編)~以上、池田・岩崎・松下トリオ

 

【第二部】

*パヴァーナ・カプリチオ、タンゴ(I.Albéniz/池田編)、入り江のざわめき

(I.Albéniz/M.Llobet編)~以上、井谷・池田デュオ

*アンクラージュマン(F.Sor)~以上、井谷・松下デュオ

*スンマ(A.Pärt/松下編)

*シータ(A.Piazzolla/L.Bravo編)

【アンコール】

*映画『11月のある日』メドレー(L.Brouwer/松下編)~以上、岩崎・井谷・池田・松下

カルテット

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というカオスなプログラムでお届けした。ドイツ留学から帰国したばかりの井谷光明氏の

若々しく瑞々しい演奏と、大阪ギター界のもはや重鎮と言ってもいい岩崎慎一氏の落ち着きと

貫禄を湛えた演奏に挟まれ、池田・松下両名は、共に充実のアンサンブルを楽しんだ。

 

 

そして翌日は守口市の大阪ギタースクールにて池田氏と私のレッスン会を同時進行で開催して

いただいた。受講してくださった皆様、聴講に来てくださった皆様、場所を提供してくださった

井谷正美先生、そしてこれだけの大掛かりなレッスン会をおひとりで主催してくださった

岩崎慎一先生に心から感謝したい。

 

 

思えば守口でお世話になり始めて10年の月日が流れていた。

毎年の守口での時間というのは、わたしにとって一年間の”日常”を充実して過ごすための

たいせつなたいせつな”非日常”であった。この大切なしあわせをもっとも分かち合いたい

相手、池田慎司氏に来年以降のレギュラーを託させていただいた。

井谷正美先生、百合江さん、お父さん、高橋通康さん、これまでレッスンを受講してくださった

皆さん、コンサートに足を運んでくださった皆さん、そして毎回どんな曲でもイヤな顔ひとつ

せずコンサートで付き合ってくださった岩崎慎一先生、、、。

池田慎司さんのエネルギーによって《守口のしあわせな時間》はこれからまだまだ膨らみ

ますよ。乞うご期待!

ほんとうにありがとうございました!!!

 

2019.1.29.

守口-1

 

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シロウトのすゝめ

 

専門的なことに永く携わっていると、評価基準の中心に《技術的なこと》《物質的なこと》を

置きがちである。

これはおそらく歌でも絵画でも料理でもおなじではなかろうか。ギターの世界であれば

「右手のタッチが雑音が少ない」とか「指の動きが安定している」など、プロ、愛好家を問わず

”爪のカタチ”から”弦のメーカー”の話まで、クラシックギターマニアの盛り上がる話題は

おおよそ決まっている。

ちなみにそれが重要でないとは言っていない。

 

 

ただそういった人々から、音楽そのものの話、作曲家の話、他の分野と音楽の共通点などに

まつわる話などはほとんど出てくることがない。これは一体何を意味するのであろうか。

つまり自分の生き方そのものを直視するよりも、”単なる自分の好み”を”評論家的立場”に

すり替えてウンチクをたれる方が人間楽しいし、ラクだからである。

ものごとの”深さ”を追求するのが専門家であるにはちがいないが、横に広がる水平的な

”広さ”を考えた時、専門家よりも例えば生徒さんたちの方がはるかに広かったりする。

 

 

<狭く深く>でなく、かといって<広く浅く>でもなく、《広く、ときどき深く》ってよく

ない?(笑)

 

 

専門的になりがちな自分を時に突き放した状態で見るために、私が日常心がけているのは、

まっさらの素人の視点に身を置くこと。技術よりも感触を追いかけること。その道の玄人を

目指さないこと。

最後に(私よりはるかに視野が広く深い)作曲家、三輪眞弘氏の言葉を紹介して終わりたい。

このひとの言葉はなんでいちいち私の心に響くんだ?

 

 

 

つまり芸術家というのは美を徹底的に探究するという態度こそがプロとしての望ましい姿勢だといわれる。僕は最近、それを「究極主義」とよぼうと思ってるんですけど、つまり、科学者は真理を追求すれば他のことはもうどうでもいい、関係ないという姿勢。あるいは、ラーメン屋さんは究極の一杯を作るのが立派なことで、他のことはなんにも考えなくていいという態度。このような姿勢というのは、たとえばお金さえ儲かればほかのことはどうなってもいいという態度とまったく同じ形をしているわけですよね。そして、そういう究極主義みたいなものがたぶんこの世界を、すごく悪く、無責任なものにしているような気がするわけです。つまり、それぞれの専門家が自分の分野について互いに「素人に分かるはずがないから黙っていろ」といっさいの門外漢の素朴な疑問や意見などを拒絶し、また、「素人」のほうも自分の生存にかかわるような大切な問題でさえ専門家といわれる人々に「丸投げ」してみずからの頭で考えることを放棄してしまう、、、、、今回の原発事故はまさにそのような社会のあり方の当然の帰結のようにも思えてきます。(後略)

~『アルテスVOL.01/2011WINTER』より

 

 

2019.1.18.

 

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2019年はじまり~っ!

 

皆様、あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い申し上げます。

しかし既に10日以上が過ぎてしまった、、、。

とりあえずこのたびのブログは簡単な御挨拶的内容とさせて頂きます。

 

 

今年はまたいろいろなコンサートやイヴェントを企画します。当教室の企画以外にも興味深い

ものが予定されているようですので、またあらためてご紹介しますね。

今年の個人的目標は、「地道にコツコツと、、、」。

それって例年通りじゃないか!

勿論それは続けるとして、真新しい目標としましては、今までのように自分の楽しみを追い

求めるだけでなく「他者の楽しみに貢献できるような活動」を私なりに探っていきたいと思って

おります。

なんか書けば書くほど、新春早々うさんくさい政治家的なご挨拶になってしまうのは何故?

 

 

新春第一弾は、恒例となりました大阪ギタースクール(守口市)主催のコンサート

『ギターアンサンブルの楽しみ』

 

名手、池田慎司さんとがっつりデュオのほか、大阪ギター界の重鎮であり我々二人にとって

”心の兄貴”岩崎慎一さんとのトリオ、ドイツから帰国したばかりの実力派若手、井谷光明さんを

交えてのデュオやカルテット演奏を予定しております。

選曲は『アンクラージュマン(F.ソル)』『入り江のざわめき(I.アルベニス)』など

デュオの定番から、ハンガリーの作曲家 F.ファルカッシュのオリジナル・トリオ作品や

いまだ演奏機会の少ないキューバ音楽などヴァラエティ豊かなプログラミングでお送りします。

乞うご期待!

 

それでは皆様、2019年もよろしくお付き合いください!

 

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