ケイタイ電話と私

 

とりあえずケイタイ電話の話である。未だに持っていない私、、、。

うちの固定電話で用は足りているし、スマホも含めて持ちたいと思ったことが未だかつてない

ので、持ったことがない(お金もったいないし、、、)。

ただそれだけの話である。

他意はない。

ホントです。

 

 

ところが持たない状態を長年続けていると、「自分の信念や主義、主張のためにケイタイを

持たないひと」と見なされることが多いのに気付く。まるで私の存在そのものがケイタイや

スマホに対する抗議活動の象徴のように見なされるケースが結構あるのだ。

 

 

かつて某著名ピアニスト(男性)を囲んだ宴席にはべらせていただいた時、ホスト役の方が私を

紹介する際に、

「ちなみに彼はケイタイ電話を持っていません。」

と言った途端、なぜかピアニストの奥さんに火がついた。

「私、自分の都合でケイタイを持ってない人ってすごくイヤなのよね。周りの迷惑を考えてない

のかしら。主義か主張か知らないけどホント身勝手よね。」

と、散々だった。

 

 

おそらく彼女が過去に出くわした”ケイタイ電話持たないひと”は、主義、主張が強烈にある方

だったのだろう。私も同類と見なされてしまったのだ。でも私の場合、他者が持つことに関して

本当に何とも思わない。なぜ”持たないこと”イコール”抗議活動”のように見なされるのか。

持ってる人を非難したことなど一度もない。

別な言い方をすれば、私は変わらず、周りが時代と共に変わっただけである。

 

 

「松下がケイタイを持ってないのはけしからん!」

という意見が出て、さるギター協会をクビになりかけたこともあった(その後別の理由で退会

して既に数年経つが、、、)。

会社などの組織の場合はやむを得ないであろう。

だがまさか自営業者同士による手弁当的集まりの”ギター協会”で、、、。

『”時代と共に”変化しないこと』は、そんなに罪なことなのだろうか?

 

 

いっぽうで、持ってない私を見て

「自分は現在持ってるけど、本当は持ちたくないし、あなたのように持たない方がいいと思う

んです。どうぞご自分を貫いてください。」

などと励まされる場合も多い。

でも私の場合、ふとしたきっかけで明日から持っているかもしれない(笑)。

自分の中にキッカケがないから持たないだけであって、持たないことがいいことだとは別に

思っていない。

「周りが持っているから、、、」

という理由だけでは私の場合キッカケにならなかっただけの話である。

 

というわけで、現代日本社会においてほとんど共感を呼ばないであろう今回の話題であった。

 

2018.5.30.

 

カテゴリー: エッセイ, 生活の中の音楽 音楽の中の生活   パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)