夏の(?)イライラ対策

 

昨日、21日(金)長崎大学文教キャンパス内『長崎創楽堂』にて行われた高橋悠治氏のピアノ

リサイタルを聴きに行った【主催:(株)十八銀行、長崎大学、長崎創楽堂を活用した

アートマネジメント育成事業】。

 

生の演奏を聴かせていただくのは何年ぶりだろう。

印象は初めての時と変わらない。

毎回驚嘆するのは、演奏前の状態と楽曲の演奏に入った時の「境界線」の無さである。

”ステージでの演奏行為”と”日常生活”の境目が無い、とでも言ったらいいのだろうか。

 

ガルッピ、モーツァルト、バッハの作品ではペダルをほとんど使用せず、ピアノという洗練

されたメカニズムを持つ楽器(しかもスタインウェイ)から、信じられないほどゴツゴツした

音を引き出していた。後半のサティ、ブゾーニなどの作品では、(当然であろうが)一転して

ペダルを多用した深い音響であったが、「音楽の親密さ」は全く変わることなく持続していた。

そう、氏の演奏からはいつも「崇高」ではなく「親密」な、”手触りのぬくもり”のようなものを

感じる。モーツァルトでもバッハでもブゾーニでも、、、。

 

私が好きな演奏をするポピュラー系ピアニストの方々(吉森信さんや熱田公紀さん等)と話を

すると、いつも必ずと言っていいほど悠治さんのお名前が”フェイバリット・ピアニスト”と

して挙がってくるのだ。

 

高橋氏のような『さまざまな境界線を自由に往来できるひと』に、現在の私は心から憧れる。

 

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じつはここ数年、『教育』という言葉に対し、ビミョーな警戒心を持っている。

 

ひとが(知人であれ見知らぬ他者であれ)ひとに対し腹を立てる時の心理状態の背後に、

どうもわたしは『教育』というものの存在というか影をチラチラと感じてしまうのだ。

これは勿論私の個人的な感覚であろうが、、、。

 

ちなみに今日見たニュースでこんなのがあった。

 

~19日午後7時半ごろ、神戸市中央区のJR三ノ宮駅のホーム上で、スマホを操作しながら歩いている同市内の無職女性(55)に、男(63)が正面から体当たりして転倒させ、重傷を負わせた疑い。同署の調べに「歩いていたらぶつかった」と容疑を否認している。

同署によると、男がスマホ操作中の女性をめがけて歩いて行き、体当たりした様子がホームの防犯カメラに写っていたという。女性は後ろに倒れて後頭部を打ち、意識なしの重体で搬送された。その後、意識は戻ったという。男は「相手がスマホをしているのが悪い」と供述しているという。(神戸新聞NEXT記事より抜粋)~

 

これは”歩きスマホしているひと”に対し”腹を立てたひと”が、

「てめー、周りを見ずにそんなことしたら周りの人間が迷惑じゃねーか!そんな行為が社会で

許されねえって事がわからねえのか!そんならオレが”世間サマ”を代表して正義の鉄槌を下して

やらァ!」

などと思ったかどうかは知らない(勘繰りの大筋としてはそんなにハズレてないと思うけど)。

勿論この男性の行為は社会的に見て許されるものではない。相手が自分より身体の大きい男性

だったら果たしてこの男性は同じように鉄槌を下しただろうか?(下さない方に三千点!)

一方で女性の方にも全く非がないわけではない。

 

だがこの事件の責任の所在や是非についてはいったん置いといて、私が気になるのは先ほど

私が勝手に創作して代弁した心理状態の方である。

みなさんはこのような「怒りのプロセス」を日常生活において経験されたことがないだろうか?

 

 

私の場合は例えば、、、、、、イオンなどのショッピング・モールの中の通路を歩いていると、

向こうから道幅ヨコ一杯に広がった五人家族がこっちに向かって歩いてくる。

小さい子供を連れ、すれ違うスペースが無いほど”シアワセ一杯ヨコ一杯”に広がった五人家族を

あなたならどうむかえるだろう。

このまま行くと避けないことにはぶつかってしまうのだが、あちらが避けない限り無理な状況

である。そしてそのような場合、その状況に気付くのは不思議と九割以上こちらが先なので

ある(笑)。

そんなとき私の悪い癖だが、ムカムカするあまり、親に対し真正面から突っ込んでいく。

(なぜなら子供は最後まで避けようとしないことがある)

 

その状況下での私の心理を分析すると「そんなの社会じゃ通用しねーぞ!」という【こいつの

意識を教育しなきゃモード】に入ってしまっているのだ。

”私の個人感覚”がどうという意識ではなく、”私が一般的モラルの代弁者”のような感覚に

その時の私はおちいってしまってる。これはあまりよいことではない。

 

怒りやイライラといった感情は日常いたるところに転がっている。

これらを冷静にコントロール出来ればどんなに救われるか、、、。

そしてこれらの感情の追い風となるのは、結果や結論を必要以上に急ごうとする”せっかちさ”

だと思う。

 

負の感情を呼び起こしやすい要素として、私が日常の生活の中で極力避けるようにしている言葉

をここに列挙してみたい。

 

*「急がなければ、、、」

*めんどうくさい

*他者を”教育”および”啓蒙”する

*「普通こうだろう、、、」

*常識

 

前を歩いている人を追い抜きたい衝動に駆られる時、取り敢えず「急ぐのを一旦やめる」ことで

クールダウンできる。「お先にどうぞ」の精神が大事である。よっぽど急いでる場合は別だが。

 

「めんどうくさい」というのは、そこにかかる”手間ひま”や”時間”などを省略したい!という

衝動であろう。だがそう思う時は、大抵”自分の都合”でせっかちになっているだけである。

”手間ひま””時間”は人間関係において大切なものだから大いにかけたい、と最近は思う。

 

「あんたみたいな考え方は社会では通用しない!」

と叫びたくなるとき、《社会では、、、》の言葉を《わたしには、、、》に置き換えてみよう。

ちょっとだけ冷静になれるし、本来わたしが社会を代表など出来るわけがない(苦笑)。

社会ではなく、そのイライラはあくまでも自分の感情に根差したものだと受け入れることが、

とりあえず大切だと思う。

 

ちなみに最後になるが「他者を教育」しようとすることに私は反対である。

「何をなまぬるいことを、、、」と思われるかもしれないが、”教育”や”啓蒙”という言葉に

含まれる《上から目線的な要素》、そして最終的には「あなたの為を思って」という《偽善的な

要素》をこの単語に感じる限り、わたしは好意的に使うことは決してないだろう。

「共に経験し、共に学習する」という言葉を口にするとき、私の荒みかけた心は幾分和らいで

くる気がする。

 

2017.7.22

カテゴリー: エッセイ, 生活の中の音楽 音楽の中の生活   パーマリンク

夏の(?)イライラ対策 への2件のコメント

  1. shun より:

    同感です。他者の行為に対する瞬間的感情は、自分の精神状態で異なってきますよね。
    行為自体は同じなので、結果的にその行為を是と考えるか非と考えるかは変わらなくとも、反射的に自分の中に沸く感情とか、その行為を行った他者の心情・立場をどう捉える(推測する)かは、自分自身の状態に左右されますね。
    ただ一方、「怒り」は、“自分”を保つためにある程度必要な感情だとも思っています。
    イオンの事例には当てはまりませんが、他者の行為に「怒る」ことができないと、ただ怯えるだけになったり、「自分はダメだ」と自己否定に陥ったりしてしまいます。某コールセンターにいた時も、理不尽な電話に“怒れる人”は長続きし、“凹む人”は辞めていっていたように思います。
    また、怒らないために、周りとの関係を薄くし、無感覚でいようとすると、プラスの事象にも気づきにくくなりますよね。
    先生がよくおっしゃる“バランス”なんでしょうね。
    他者の行為に“気づく”けど“気にしない”、自分も他人も傷つけず“やりすごし”て次を待つ、そんな風にできたらなぁと思っています。
    「自分が安全でさえいればいいのか、お前は! 無責任野郎!」と謗られそうですが…。

    • ryuji より:

      shunさま

      いつも「考えさせられるコメント」戴き、有難うございます。

      なるほど”わが身を守るための怒り”というものも確かにあるでしょうね。

      しかしながら他者に対しても、わが身に対しても《攻撃的》になるのは避けたいところですね。

      『他者の行為に《気づく》けど《気にしない》、自分も他人も傷つけず《やりすごし》て次を待つ』

      うん、理想的です。

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