タンゴ・アン・スカイ

 

フランス在住のチュニジア人ギタリストであり作曲家であるロラン・ディアンス氏が先月末、

61歳で永眠された。その訃報は世界中を駆け巡り、クラシック・ギタリストたちに衝撃を

与えた。

 

 

「古典作品だけでレッスンしたらコイツはどう育つか?」という恩師、坂本一比古先生

(故人)の非情な人体実験の生け贄となった十代の私は、先生のご期待に沿うこともなく、

ただの古典嫌いの若者へと育ってしまった。私が「ギターをやめたい」と発言することで、

実験の失敗と終焉を悟られた先生は、十代後半の私に対しクラシックギターの現代作品を一気に

解禁にした。それまでは完全マンツーマンのレッスンだったが、もっと人の出入りの多い教室の

ほうに私のレッスン場を変更させた。そしてそこには六歳年上の福山仁さんという先輩が

いらっしゃった、、、。

 

 

(現在も熊本を拠点にご活躍の)福山先輩が当時採り上げられていたレパートリーは、それまで

の私が聞いたこともない『最先端のギター曲』ばかりで、古典漬けだった私にとって何と眩し

かったことか、、、。

振り返ってみれば、当時のギター界は(今みたいにネットもないし)最先端をみんなで共有して

いた時代だった。それは東京発信のものを何の疑いもなく全国のお茶の間で共有していた

『昭和的価値観』とオーヴァーラップする(今それが通用しないと言い切るつもりはさらさら

ないが、その話はまた別の機会にゆずろう)。

 

 

とにかくその時、出会うべくして私は R.ディアンスの作品群に出会った。

ジャズやロック、民族音楽の旨味が混然一体となったポップでフュージョンな感覚。フランス的

エスプリに包まれたダンディズム溢れる作風、、、。同い年の鈴木大介氏がブログで書かれて

あるように、当時10代後半のわれわれにとって、ディアンスはまさに「ヒーロー」だった。

そのロラン・ディアンスの作品の中で専門家、愛好家問わず、最も演奏される頻度の高い作品が

「タンゴ・アン・スカイ(なめし皮のタンゴ)」であることに異論を唱える人はまず居ないと

思う。

特に若い人が採り上げることが多いこの曲だが、若者諸君よ、、、この曲が発表された当時には

おじさんだって若かったのだよ。

つまり私もこの曲は人前で散々弾いてきたのだが、別に今回この場を使って《おじさんだって

弾けるぞアピール》がしたい訳では勿論ない(笑)。

ただその後、この曲の本質を理解するにつれ、私には弾けなくなってきたのだ。

その本質とは、、、?

 

という訳で、長い前置きでしたが、松下隆二ブログの新コーナー『暴論的持論』はじまり

はじまり~っ!

 

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《このたびの暴論的持論》

「タンゴ・アン・スカイ」~その本質はコロッケである

 

 

誰かが「空のタンゴ」と訳しているのを見たことがあるが(笑)、タイトルは英語ではない。

スカイとは合成品皮、なめし皮、と訳される。つまり作曲者ディアンスが付けたタイトルは

「にせもののタンゴ」「まがいもののタンゴ」つまり本物のタンゴではないよ~というもの。

ここまでは皆様ご存知のことであり(えっ、それも知らなかった?)、私がことさらに力説する

必要のないことだが、「ああ、そうなのね、作曲者は謙虚なひとなのね」で話を終わらせず、

もう半歩踏み込んでみようではないか。

 

 

つまりディアンスがこの曲においてやりたかったことは、まずタンゴから精神や本質を抜き取り

「形骸化」させること。そこに残るものは”タンゴっぽい効果(エフェクト)”のみであり、

聞いた人に「あるある、そんな感じ、、、タンゴの曲で ”よくある” 」という風に如何に感じ

させられるかが最も重要なのである。つまりこの曲は過度にデフォルメされたタンゴ、すなわち

エンターテイメント以外の何物でもなく、その本質は「コロッケ演じる千昌夫」と同じなので

ある。

別なたとえで言えば、効果音ばかり派手で、中身のないハリウッド映画みたいなもんである。

(ハリウッド映画が全部そうだとは言ってないぞ!)

千昌夫のホクロが実際あんなにデカいわけがない。だがあそこまで特徴を強力に打ち出すことが

「デフォルメ」であり、エンターテイメントとしては必要なことなのである。

 

 

あの曲の楽譜には、作曲者による曲想やエフェクト指示が小うるさいほど書かれている。

【突然強く】や【突然弱く】はもちろんのこと、【メロディーをはっきりと】【伴奏は軽く】

【ウインクするように】【流れるように】【悲劇的に!】などなど、、、。あの小姑のような

指示をいかに汲み取るか、、、のエチュードだと思っても楽しいかもしれない。

 

 

くどいようだが何度でも繰り返す。

これらの指示を《コロッケの千昌夫》なみに強烈に打ち出すことが、あの曲の目的として求めら

れるものであり、ギタリストの華麗なテクニックを見せつけることだけで終わっては、あの作品

の本質に到達しない。その先にある「モノマネ」の面白さを打ち出し、エンターテイメントと

して成立させられるかが問われる曲なのである。ところどころに作曲者の敬愛する ヴィラ=

ロボス作品からの引用も顔をのぞかせるが、弾き手がそれをわかったうえで、どう表現するかは

もちろん個々の自由である。

 

 

「いかに真剣にふざけられるか」「いかにお茶目さを演じられるか」を求められているという

ことに気付いた時から、私はこの曲が弾けなくなった。個人的な話だが、二十代から三十代に

かけての私には、この曲が求めている【ユーモア】【軽さ】【エンターテイメント】を自分の

中から絞り出す勇気がなかった。当時の私は、ただひたすらまじめだったのだ。

 

 

この曲は『演じる音楽』であり、(この曲に限らずだが)演奏するひとは《曲という台本》を

手にした以上、演じなければならないのである。たとえそれが自分本来のキャラクターと違って

いたとしても、、、。

 

2016.11.14.

 

 

カテゴリー: エッセイ, 明日のギター演奏の為に, 暴論的持論, 観てみて動画   パーマリンク

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