集団と自分

 

いきなりCMのコーナー、、、。

来たる3月31日(日)福岡市内の某所にて、「春のサロンコンサート」と題したギターソロ

演奏会を予定。『ギター名曲170選ABC(ドレミ楽譜出版社)』のA巻(全91曲収録)からの

選曲のみで構成し、お届けするこのコンサート。生徒さんたちが発表会などで演奏する機会の

多い曲を採り上げる予定なのだが、決して模範演奏を狙ったものではない。

「みなさんが日頃接している曲は決して上達のための”踏み台”ではなく、”作品”なのです」

「なんの曲に取り組んでいるかが重要ではなく、目の前の曲にどう取り組んでいるかの方が

はるかに重要」

この2点を《演奏を通じて》みなさんにお伝えしたい。20曲ほど演奏するつもりであるが、

もちろん私にとって本気の取り組みである。

作品の魅力がお客様に伝わることを第一に目指して、目下練習中。

狭い会場のため、あと3名で定員に達する予定。ご予約はお早めに、、、。

 

 

もひとつCM。

かつてCDをご一緒させて頂いたこともあるヴァイオリン奏者、荒田和豊氏が九州交響楽団を

定年退職されるにあたり、氏がかねてから共演をご希望されていたギタリスト鈴木大介氏との

デュオコンサートが実現。シューベルトの名作『アルペジョーネ・ソナタ』やピアソラ

『タンゴの歴史』のほか、鈴木氏ソロによるメルツ編『6つシューベルト歌曲』(私の大好きな

ヤツ!)など充実のプログラム。

4月16日(火)19:00開演【18:30開場】場所は福岡市内にある室内楽用ホールとしては最高

の”あいれふホール”。チケットは唐人町教室でも取り扱っているので、こちらも是非お早めに。

 

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去る3月20日(水)夜、ひさしぶりにバンドのメンバーと再会し、飲んだ(一応飲めるのよ、

ボク大人だし、、、)。

数字の記憶に弱い私にはどうでもいいのだが、7~8年ぶりくらいだろうか。

これまでの空白期間があっという間に埋まっていくかのような会話の数々、、、。

 

 

居酒屋での二時間半はあっという間に過ぎたのだが、このメンツの中に居る時にしか出さない

”自分の顔”というものがあることに、ふと気が付く。

別な集団の時には、私はきっと別な口調で別な顔をしてしゃべっていることだろう。

わたしだけではあるまい。これを読んでくださってるあなたもきっとそうではなかろうか?

 

 

どの自分が”素のわたし”で、「これは本来のわたしではない」などと区別したりはしない。

きっとどれも本当のわたしの姿なのだろう。どの集団に属するかでいろんな顔が自然と出てくる

のなら、”多層的な自分”であるためにいろんな集団に属した方が人生面白いのかも、、、

 

などと考えた花粉まみれの春。次はヒノキかぁ、、、(じつはダブル花粉症のわたし)。

 

2019.3.21.

 

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音符と演奏のはざまで、、、(その3)

 

音の動きを”視覚的”にとらえることと”聴覚的”にとらえること。

 

このふたつの間に横たわる《齟齬》《誤差》から浮き出てくる影響については、

「存在しないもの」

として暗黙の裡に流されている気がする。

個人的な話であるが、ソロ演奏において私は頻繁に目を閉じる。それはよく誤解されるように

”自分の演奏に酔いしれている”わけでは決してなく、視覚的能力を一時的に休ませたい、

あるいはそこから一時的に解放されたいときにそうしているようだ。目を閉じた方が、思考から

感覚へと脱出しやすい(ひとまえで自分の演奏に酔いしれるなんて、そこまで恥知らず

じゃないぞ~!バカにするな~!)。

 

 

その昔ブラジルのシンガー、カエターノ・ヴェローゾが12音技法で作曲した「ドイデッカ」と

いう曲をジャズ・ミュージシャンとやったことがある。12音技法なので当然コードは無い。

音符を書いたコード無しの譜面を渡したところ、「コードが無い」「どーすりゃいいんだ?」

と四六時中騒いでた(結局訳の分からないテンションだらけのコードネームを自力で書きこんで

ホッとされていたが、、、)。

また、ある実力派ジャズギタリストがクラシックギターのレッスンを受けに来られてた時の

こと。ヴィラ-ロボスの「ショーロス一番」初回レッスンを終え、翌週来られた時には、譜面に

ビッシリとコードネームが書き込んであった、、、。

 

 

これらのことは、なにを意味するのであろうか?

つまり多くのジャズミュージシャンにとって、コードは”心の拠りどころ”であり、”コードが

書いてない譜面”というのは、不安を煽る以外のなにものでもないという事実。クラシック

ミュージシャンにコードネームだけを渡すのと同じように、、、。

ただコードネームを明らかにすることはなにもアドリブ目的だけではない。

クラシックであろうとジャズであろうと、コード進行を把握することにより楽曲分析(アナ

リーゼ)が容易になるという利点がある。このことは強調したい。

 

 

プレイヤーが音符に向かう時とコードに向かう時で、どのような感覚の違いが生じるのか?

コードの場合は、気持ちがおおらか(大雑把)になれる気がする。

音符の場合は、気持ちがどうしても正確かつ几帳面にならざるを得ない。

だがたとえ音符表記であっても《すべての音が平等で、均一に響かせる必要》はない。

楽譜上、音符のタマの大きさが統一されてあるので、実際の演奏に当たっては、

「しっかり鳴らす音」か「捨て音(ゴーストノート)」か

演奏者が各自判断しなければならない。

そういえばヴィラ-ロボスの自筆譜(ギターソロ作品)でメロディー、バスは《大玉》、

内声は《小玉》で書いてあるものがあったなあ、、、あれは見易い。

 

 

「音符で音楽をやるメリット」も勿論ないわけではない。

 

*作曲やアレンジがしっかりしてさえいれば、演奏者が”自分の能力”以上のものに触れる機会を

もらえること(響きを体感することができる)

*コード的でない、より緻密なアンサンブルも可能になること

 

 

「音楽にジャンルという垣根(国境)はない」とよく言われる。

セリフとしてはカッコいいが、垣根はあるし、あってもいいと私は思っている。

垣根を越えるとき、お互いの領域に対しその都度《敬意もしくは感謝》があるかどうか、、

の方が、垣根をとっぱらって統合することよりもむしろ大切なことではなかろうか。

お互いの集落で使っている言語や文化のなりたちの違いは厳然として存在するのだから。

 

(おわり)

 

2019.3.8.

 

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音符と演奏のはざまで、、、(その2)

 

先に申し上げておくと、今回のテーマについては現時点で私なりの結論や着地点は持ち合わせて

いない。よって読者の皆さんをどこに引っ張ってゆきたいなどは全く考えていない無責任さで

話を進めている。ただ最近よく思うのは、話というものは”辿り着く結論”そのものよりも、

その途中にころがっている一見”どうでもいい話”の方が、よっぽど有益なものに発展する場合が

多い。あなたにとってのそんな話がひとつでもころがせたらなー、、、、。

 

 

ジャンル問わず旋律楽器奏者の多くが、背後に流れるコード(和音)というものを意識しない

まま演奏していたりする。”ちゃんとした旋律楽器奏者”は勿論そんなことは無いが、、。

ひとりでコードを鳴らすのが出来ない楽器の場合は、その意識が多少希薄でもいたしかた

あるまい。だが鍵盤楽器やギターなど”コードが鳴らせる楽器”の場合、自分が弾いている音符が

コードトーンとしてどういったニュアンスや意味を持つものか意識した方が、演奏がぐっといい

感じになる。これはもちろんプロや愛好家など関係なく、である。

 

 

楽譜上の《音符》というものは何故生まれたのであろうか?

おそらく本来、目には見えない”音”というものを視覚的に享受するためであろう。

だがピアニストやギタリストの場合、《視覚》というものを楽譜あるいは音符のために100%

使えない。なぜなら我々(ピアニストやギタリスト)は、鍵盤上や指板上(左手)、あるいは

弦上(右手)にも視覚的能力を要求されるからである!

だってフルートやトランペット奏者の場合、楽器上に展開されてある音の配列を視覚的に捉える

必要なんてないわけでしょ?

加えてギターの場合、ピアノのように音の高い低いがお行儀良く順番に並んでいるわけではなく

しかも”同じ音”が複数の箇所で出るというやっかいさ、、、。

ギターに触れて40年以上経つが、この楽器がなぜ他の楽器よりも「初見演奏が難しいのか?」

ようやくわかってきた(気付くのが遅すぎた!)。

つまり《楽譜を読み取る作業》と《指板上の音配置の確認作業》で”視覚的能力”を消耗する

度合いが他の楽器よりもはるかにデカい。

 

 

それに気が付くと同時に、ギターという楽器においてコードネームで捉える方法が一般的に

普及し、音符で捉えるクラシックギタリストが”マイノリティー的位置”にいるのかがなんとなく

わかる気がするのである。

 

 

(つづく、、、かな?)

 

2019.2.25.

 

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音符と演奏のはざまで、、、(その1)

 

ギター初心者の生徒さんにとって”ギターを使って音楽すること”は大変である。

 

まず『楽器を抱える』

そして『弦を右手指ではじく』

それから『指板上の弦を左手指で押さえる』

そしてここで大きな壁が立ちはだかる。

 

 

『五線譜上の音符の高低と長さを同時に読み取る』

そして読み取ったそれらの情報を『ギターの指板上あるいは弦上に反映させる』

あ、そういえばi,m,交互に動かしなさいって先生が言ってた気がする、、、。

 

 

頭に挙げた三つくらいは皆さんサラサラと出来るようになるから、人間の能力とはつくづく

大したものだが、《音符を読む》という作業については、勿論個人差はあるものの、多くの人が

苦労を強いられることのようである。《ギターの指板を覚えること》も然り。

だが『楽譜を読めること』、もっと具体的に言うと『音符を読めること』は音楽を楽しむ上で

実際のところどのくらい必要だろうか?

 

 

ここで私が言う『音符を読める』というのは、「音符を読み取るとほぼ同時に自分の楽器上に

反映する」能力のこと。

音程やリズム、音量だけでなくその曲の時代様式にふさわしいニュアンスまで実現出来たら、

クラシック教育の目指す”初見能力”としては完璧の部類であろう。

 

 

そういった意味だと、たとえば同じギタリストであっても、路上でフォークギター片手に

歌ってるお兄ちゃんお姉ちゃんの大半は”音符が読めない”。それでも彼らはコード(和音)を

読み、気の利いたストロークやアルペジオで即興的に伴奏出来る。

 

 

我々から見ると魔法であるかのような見事なアドリブをするジャズギタリスト達も、あらかじめ

書いてある音符を弾く段になると、その大半はとたんに汗をかき譜面にしがみつき始める

(彼らはその作業を”タマ読み”と呼び、敬遠する)。

たとえそうであっても彼らは指板上のコード・トーンのニュアンスやスケールをクラシック

ギタリストとは比べものにならないほど熟知し、その時の音楽状況に即興的に対応できる。

フォルクローレ・ギタリストもブラジリアン・ギタリストも同様である。

 

 

つまりクラシックミュージシャン以外のほとんどが”音符”ではなく”コード”に基づいて音楽を

楽しんでいるという事実に目を向けてみよう。何故にコードか?

それは先程申し上げたように、コードで音楽をとらえることで「即興演奏できる自由」を音楽に

確保しているのである。ジャズに至っては即興(アドリブ)がメインと言ってもいい。

そしてクラシック教育が前提としている”音符を瞬時に読み取る能力”というものは、即興演奏に

ほぼ関わりのない能力なのである(が~ん!)。

その事実から目を背け、「楽器演奏の基本はクラシック」という迷信を信じてうたがわない人は

他ジャンルとの異種格闘技の場に立って初めて途方に暮れることになる。

 

(つづく)

 

 

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2019守口

年明け恒例となっている、大阪守口市でのコンサート(大阪ギタースクール主催)とレッスン会

(岩崎慎一主催)で、今年も25日~27日の三日間にわたりお世話になってきた。

 

北九州市在住の名手、池田慎司さんと共に充実の時間を過ごさせていただいた今回であるが、

コンサートの内容としては年明けのブログで予告していたように、以下の内容であった。

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《ギターアンサンブルの楽しみ》

【第一部】

*田園的子守歌~映画『失われた都市』より(A.G.Caturla/J.Ortega編)

*ベンタロン(P.Maffia/L.Bravo編)

*テ・バス・ミロンガ(A.Fleury/L.Bravo編)

*ふたつのギターの為の音楽(C.Fariñas)~以上、池田・松下デュオ

*キタロエディア・ストリゴニエンシス(F.Farkas)

*君の影になりたい(H.Quatromanos/松下編)~以上、池田・岩崎・松下トリオ

 

【第二部】

*パヴァーナ・カプリチオ、タンゴ(I.Albéniz/池田編)、入り江のざわめき

(I.Albéniz/M.Llobet編)~以上、井谷・池田デュオ

*アンクラージュマン(F.Sor)~以上、井谷・松下デュオ

*スンマ(A.Pärt/松下編)

*シータ(A.Piazzolla/L.Bravo編)

【アンコール】

*映画『11月のある日』メドレー(L.Brouwer/松下編)~以上、岩崎・井谷・池田・松下

カルテット

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というカオスなプログラムでお届けした。ドイツ留学から帰国したばかりの井谷光明氏の

若々しく瑞々しい演奏と、大阪ギター界のもはや重鎮と言ってもいい岩崎慎一氏の落ち着きと

貫禄を湛えた演奏に挟まれ、池田・松下両名は、共に充実のアンサンブルを楽しんだ。

 

 

そして翌日は守口市の大阪ギタースクールにて池田氏と私のレッスン会を同時進行で開催して

いただいた。受講してくださった皆様、聴講に来てくださった皆様、場所を提供してくださった

井谷正美先生、そしてこれだけの大掛かりなレッスン会をおひとりで主催してくださった

岩崎慎一先生に心から感謝したい。

 

 

思えば守口でお世話になり始めて10年の月日が流れていた。

毎年の守口での時間というのは、わたしにとって一年間の”日常”を充実して過ごすための

たいせつなたいせつな”非日常”であった。この大切なしあわせをもっとも分かち合いたい

相手、池田慎司氏に来年以降のレギュラーを託させていただいた。

井谷正美先生、百合江さん、お父さん、高橋通康さん、これまでレッスンを受講してくださった

皆さん、コンサートに足を運んでくださった皆さん、そして毎回どんな曲でもイヤな顔ひとつ

せずコンサートで付き合ってくださった岩崎慎一先生、、、。

池田慎司さんのエネルギーによって《守口のしあわせな時間》はこれからまだまだ膨らみ

ますよ。乞うご期待!

ほんとうにありがとうございました!!!

 

2019.1.29.

守口-1

 

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